kotoba日記                     小久保圭介

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もっとすごいヤツがいた

2020年11月04日 | 文学
  



最初に小説において
神話的要素、及び神話という言葉とぶつかったのは
大江健三郎と中上健次の解釈と理論を
あらゆる評論や対談で解読していた時です

何故
大江健三郎を読み始めたか
というと
三島由紀夫の対極にあった小説家だったから

三島から始め
文学への傾唐ヘ
反対のものを読むことも大事でした
それは三島を理解したいという一念から

文学とはもの凄く難解なもので
今でもそうです

もちろん
三島が影響された
または三島が発言した作家をたどってゆく作業
レイモンラディゲやコクトー
ボードレイル
埴谷雄高や稲垣足穂など
かじる程度に読んでいきました
三島の原点はどこにあるかを知りたかった
仏文だし
まあフランス文学だろうな
と思ってはいたのですけれど
日本文化というものを当時
わたしは敬遠していた

対極の大江健三郎を読んだ
何故
対極だったかというと
思想的
ということだったんですけれど
三島には思想はない
それは確かです
そこに関しては話が逸れるので
今回はやめておきます

大江健三郎の中期
『個人的体験』から
大江文学は始まった
初期はニヒリズム
水槽の死体を棒で突っついたり
人間を物として見る目線は
詩的でさえあったけれど

『新しい人よ目覚めよ』あたりから
ウイリアムブレイクの詩が引用されてきた
その後
ダンテの『神曲』や
フラナリーオコナーの詩が引用されて
日常に彼らのキリスト教的神話が
導入されてきました
文化人類学者の山口昌男の影響も強く
評論家の柄谷行人は
「大江健三郎は文化人類学を導入したが中上健次は文化人類学の対象そのものだ」
と中上健次と大江健三郎の違いを見事に言い当てました

まず大江を読んでいて
ああ
これは三島を超えている
と思った
なぜなら
四国の森の山村の話が
キリスト教的な示唆に包まれてゆき
平凡な村民たちが
神話的な人物と重なってゆく
その面白さは
三島にはなかった
もっとはっきりいえば
三島は何も信じなかった
大江は障害を持った子供ができたあと
神話的になってゆく
この違いは
文学に大きく反映されました
大江は信じている
森を木を人を息子を

次に大江と一緒に語られる
『最後の文学』者のもう一人
中上健次です

被差別部落を路地と名付け
路地は世界に繋がっている
と言った
すごいと思った
そして
路地の平凡な人々が
今度は仏教的加護において
生きている熱情
血が流れても
輪廻転生ということで
血族にこだわった
それはガルシア・マルケスであっただろうし
色々ある

『奇蹟』という小説で
最後
主人公が
仏の掌の上で
持ち上げらているシーンは
圧巻でした

普通の生活に神と仏が混じり合っている
これは三島にはなかった
最後
『豊穣の海』のラストのみに
それはあったから
もう少し書いてほしかった
『何もないところにきてしまった』
っていうところを読んだ時の読後を
今でもおぼえています

当時
三人ともこれはどうやって読んだら
いいのかな
と思って
まず読む
とにかく文学はむつかしい
何が何だかわからない
わからないというのが
本当に魅力だった
再読するともう
違う意味が生じて
違う疑問が出てくる
この面白さはたまらん

そして待ちに待った
後書きのあとの
解説を読むんです
それは文庫のみに書かれてあったけど
それを読むのが楽しみだった
そうか
そんな意味があったのか
と納得
解説は評論家や作家が書いていて
気に入った
わかりやすい解説だったら
その評論家の本を借り
その作家の本を借りた
文学の海
文学の森
どこがどう繋がっているのか
たどってゆくのか
混じり合って
たちのぼって
消えて

混沌ですね文学は

ただ読み漏らしがあった
小島信夫と古井由吉と石牟礼道子です


大江も中上も文庫で買って
解説で解釈の勉強をした
それだけじゃいけないと思って
三人の評論を片っ端から読んだ
『國文學』なんていう大学文学部のテキストは
図書館で閲覧のみだったから
買って読みました
だから今でも本棚に数冊あります

特に三島の評論は当時あったものは
全部読みました

中上は三島の輪廻思想に自身も重ね
天皇ということも
日本
日本人
日本語ということも言っていた
それは三島と重なっていた
ところが
三島には神話がなかった
神話の代わりに自己愛があった
自己愛をはぎ取ってゆくと
神話が生まれる
つまり
他者です
他者への思いこそが
神話的に成らざるを得ない
どんな宗教も
言っていることは愛です
それ以外は言っていない

三島は最晩年になって
やっと宇宙的ビジョンをつかんでいたはずなのに
自己に固執して
物語を作った

この三人を耽読した経験は
おのずから
神話というものを意識せざるを得ない
だからといって
聖書を読むことはしなかったけれど
大江が書く聖書の一節と
物語の重なり方は
物語を文字通り
『重層的』にした

信じる
祈るというのは
原理です
一本の柱がある
それはキリストであり仏であり神であり
単一です
それが原理主義

その人間中心主義の反省から
出てきたのが
構造主義
機械のように
機能する作り方
ビルなど構造主義に最たるものです
建築現場にいると
鉄骨の骨組み
壁という肉
塗装という服
内装という臓器
配線という血管
配水線という汗線
窓という呼吸

これは構造主義です

原理主義は一本の木として成っている
葉はフラクタル(無秩序)に茂り
幹はまっすぐではない
年輪があり
どんどん太くなってゆく

構造が平面的垂直的としたら
原理はまっすぐ伸びる一本の木

これは本当に大事

三島は構造主義の最たるもの
村上春樹も
つまり誰も信じていないのが両者です
または現代です

現代日本に神話はあるか?

ないです

日本ははっきりした宗教がない
これがまた何でも受け入れる面白さでもある

大江が描いたダンテの『神曲』は活字では
むつかしかったので
絵本で読みました
それは何度も何度も
ベアトリーチェですね

そして三人とも
日本、日本人、日本文化から
逃れることはできなかった
何故か
彼らが書いていた言葉が
日本語だったからです


そしてこの三人より
もっとすごいヤツがいた
それを後に知った
宮沢賢治です
神話でも構造でも原理でもない
現象学の対象そのもの
全部ある
全部そこにある
それが宮沢賢治です

宮沢賢治ほど
日本語が似合わないヤツもいないし
造語たくさん作っちゃうし

日本、日本人、日本文化ということに
彼は興味がなかった
そんなものどうでもよかった
彼が愛したのは人であり
石であり空や風だった

カテゴリーというものは
宮沢賢治にはない
自由であり
その自由という概念もない
そんなのは愚問

今起きていること
それだけだった
点滅する光みたいな感じね
未だに新しい解釈が生まれる
永遠に不明の件p家です



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