聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

『日本書紀』における仏教漢文の語法が示す重要事実:森博達「仏教漢文と『日本書紀』区分論」(2)

2024年03月23日 | 論文・研究書紹介

  前回の続きです。まずは被動句例、つまり受け身の語法から。漢訳経典では、通常の「為A所B(AのBする所となる=AによってBされる)」などの形とは異なる受け身形がしばしば用いられるだけでなく、動作主なしで「所~」という形だけで受け身を示すことがあります。梵語では受け身形が多いので。

 森さんは、『日本書紀』に見えるそうした例をあげます。たとえば、巻21の「妣皇后所葬之陵」という部分は、普通の漢文であれば、「所」の前は動作主となるため、「妣皇后」、つまり亡き母である皇后が誰かを葬った陵という意味になるはずのところが、「妣皇后の葬られたまひし陵」と受け身になっているのです。この箇所はα群ですが、森さんは用明紀と崇峻紀から成る巻21には後人の加筆が多いことを指摘していました。

 巻24では、蝦夷が国史を焼こうとした際の記事として、船史恵尺が「疾取所焼国記奉中大兄」とあり、「焼かるるる国記」となっています。これはまさに中大兄こそが史書を継承したとするものであって、中大兄の意義を強調し、中大兄の子孫やその親しい氏族の系統である自分たちにとって都合の良い史書を書こうとする者たちの作為が見える箇所ですね。

 次は、仏典に良くみられる「~已(~しおわりて)」の語法であって、これは梵語の ~tvā や ~tya (~して、~しおわって)の訳です。『日本書紀』では、この用例は4例あり、すべてα群です。そのうち、巻19は、欽明天皇時の仏教伝来の有名な箇所、「天皇聞已、歓喜踊躍」であって、最新の『金光明最勝王経』の「四天王聞是頌已、歓喜踊躍」を利用したことが知られています。

 問題は、巻21のうち、守屋合戦において四天王に誓願した後、「誓已厳種種兵、而進討伐(誓ひ已りて、種種の兵を厳りて、進みて討伐す)」とある箇所です。森さんは、これを『金光明最勝王経』の「時王見已。則厳四兵、発向彼国、欲為討伐」に基づくとし、最終段階の加筆と説きます。

 「時王見已。」の「已」は「見已(おわ)りて」であるため、「。」でなく「、」ですが、確かに『金光明最勝王経』利用の可能性はあります。ただ、隋の闍那崛多訳『添品妙法華経』にも、「時転輪王、起種種兵、而往討伐」と近い表現がありますので、そちらの可能性もないではありません。

 なお、大山説では、703年に長安の西明寺で訳されたばかりの『金光明最勝王経』を用いたのは、西明寺に留学していた道慈であって、その道慈が理想的な聖人である<聖徳太子>を描き出したとしていました。

 そうであるなら、厩戸皇子が活躍する巻22の推古紀やそれに続いて山背大兄の言動が記される巻23や巻24で『金光明最勝王経』が盛んに用いられるはずなのに、そうなっていないのは不自然ということになります。特に、推古紀で重要な「憲法十七条」が『最勝王経』の表現をまったく利用していないのはなぜなのか。

 森さんは、他の仏教漢文の特徴も検討したのち、これらの語法が『日本書紀』では巻によって偏って用いられていることに注意します。

 仏教漢文の語法は、β群にだけ見られることが多く、たとえば理由を示す「因以~」は、106例もあるのにすべてβ群であり、「有~之情」も11例すべてがβ群である由。これには気づきませんでした。驚きですね。

 「動詞 + 之日(〇〇する/した日)」という語法も、全28例のうち、β群が25例で、α群に2例、巻30に1例という偏った分布になっており、α群の2例は例のように乙巳の変と大化の改新の詔勅です。正格漢文に近い文体で書かれてる巻30のこの箇所は、新羅の弔使への詔勅であって、この詔勅は倭習が目立つため、森さんは原資料を転載した可能性が高いとします。

 森さんはこれまでの著作では、『日本書紀』で倭習が目立つのは、上宮王家滅亡、乙巳の変、大化改新の詔勅の3箇所だと指摘してきましたが、仏教漢文が目立つのも、まさにこれらの箇所だったのです。

 結論として、森さんは『日本書紀』における仏教漢文の大きさを知ったとし、これまでβ群の撰述者として、渡来系氏族出身で僧侶として新羅に渡って学び、還俗して文人学者となった山田史御方を想定してきたが、今回の検討によってもそれが裏付けられたと説きます。

 そして、α群は唐人の音博士であった続守言と薩弘恪が正格漢文で書いたが、最終段階で三宅藤麻呂がα群を中心として特定の記事に潤色・加筆したのであって、α群に見える変格漢文は、この加筆か原史料の反映と見ます。

 藤麻呂についても、おそらく新羅からの渡来系氏族であって、御方と同様に仏教を学んだろうと推測します。ただ、御方と藤麻呂では、「使用する仏典表現にも相違があるのだ」と説いてしめくくっています。

 これは画期的です。同じく仏教漢文の語法でありながら、人によってどの語法を用いるかの違いが出るというのは重要な発見です。この論文によって、『日本書紀』の語法研究は新しい段階に入りました。

 ただ、聖德太子関連の箇所に見える仏教漢文の語法については、『日本書紀』の編者の文ではなく、四天王寺系の聖徳太子伝ないし四天王寺縁起を利用した結果である可能性もありますね。『日本書紀』以前にそうした文献が出来ていたことについては、今月中に私の論文が刊行されますので、出たら紹介します。

 なお、仏教の表現がいかに日本の文章表記に影響を与えたかは、先日刊行された私の『源氏物語』論文でも指摘しておきました(こちら)。

 つまり、「思い知る」は漢訳の「念知」であり、「心から」という語は近世以前は「自業自得」の「自」を和語化したものであって、これを最も多く使って登場人物の心理を描きわけたのは『源氏物語』であり、女は「宿世」に流され、男は「心から」行動して悩むというのが『源氏物語』の基本構造だと論じたのです。

 近世になると、「欲の心から」などの用例が示すように、「~の心に基づいて」の意味で「心から」という言い方が用いられるようになりますが、現在のような「心から申し訳なく思います」といった言い方は、from the bottom of my heart などの翻訳語法だろうと説きました。

 これからも分かるように、仏教の影響に注意しないと、古代・中世の文献は読めないのです。