現在、「憲法十七条」の本を執筆中ですが、悩むのは訓読をどうするかです。平安時代の古訓を載せるのか、国語学者の協力を得てさらに考察し、より古い形を復元するよう努めるのか、太子当時の訓み方を示すのは諦め、現代の普通の形の訓読にするのか。
その点、参考になるのが、2021年に刊行された神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝訳・校注『新釈全訳日本書紀』上巻(講談社)です。この本は原文と現代語訳はのせていますが、工夫された訓読は付されていません。そうなった理由を述べたのが、共著者の一人による、
福田武史「『日本書紀』の訓読がもたらしたもの」
(『和漢比較文学』第71号、2023年8月)
です。
福田氏は、『新釈全訳日本書紀』の解説では、では、中国人のように読むことを主張した吉川幸次郎が、『尚書正義』では従来の漢文訓読法に執着する必要はないとし、原文と現代語訳だけにしたことにならったと、と記してあるというところから話を始めます。
実際には、岩波書店の日本古典文学大系の『日本書紀』が、「おおむね平安時代の中頃の漢文訓読の文体によって統一することをはかった」と述べ、小学館の新編日本古典文学集の「在来の古来の古訓を批判し採用しつつ、やや音読の方に目を向けようとした」と述べていることに対する批判による由。
というのは、『日本書紀』の訓読は、ほかの漢籍や日本漢文の訓読とは本質的に異なるためだと述べます。
『日本書紀』については、純粋な日本語で伝えられていたものを漢文に訳したものだと見ることは、平安時代における『日本書紀』の講書における議論で明示されています。ですから、当時は、漢文で書かれた『日本書紀』を訓読することは、古代の日本語で伝えられていた神話・物語を復元する行為だと考えられていたのです。
当然のことながら、その訓読はできるだけ和語を用いるようにしますので、漢字音で訓んだ部分は少なくなります。しかし、『日本書紀』が書かれていた当時、そのように訓読していたかどうかは分かりません。
これを「憲法十七条」で言うなら、「以和為貴」は、「わをもって」なのか、「やわらかなるを」なのか、「あまなひを」なのか、つまり「和」を和語にするのか、「以」は訓むのか訓まずに単に「~を」とするのか、ということになります。「~をもって」は漢文くさいので、できるだけ和語風にするというなら、「やわらかなるをとうとしと」となるでしょう。「為」も「なす」は漢文調だということになれば、「とうとしとし」となります。
いずれにしても、『日本書紀』は中国の史書を切り貼りして人名のところだけ変えたようか箇所もかなりありますので、古代の日本語で書かれていたように復元するというのは「虚構」なのです。
そのため、『日本書紀』の古訓とされるものの中には、古くからそう訓まれてきた語、新たに発見された古語、あるいは『日本書紀』の訓読の課程で新たに創出されたものもあったのです。そして、一度、そうした言葉が古訓として確立し、古語として権威を持つようになると、和語の文学である和歌で用いられ、広まっていった例もあり、中には秘伝とされた例もある由。怖いですね。