前々回にとりあげた門脇氏の聖徳太子=天皇説では、田村皇子(舒明天皇)が当時の太子であったとし、二人の関係深さが強調されていました。田村皇子を当時の太子とするのは無理ですが、聖徳太子の子である山背大兄との競争に打ち勝って即位した舒明天皇について、聖徳太子との関係深さがいくつかの資料に見えることは事実ですし、聖徳太子の事績を手本にしたと見る論文を紹介したこともあります(こちらや、こちら)。
天平19年(747)に勅命で編纂された『大安寺伽藍縁起并流記資材帳』によれば、大安寺は聖徳太子の遺言に基づき、舒明、皇極(斉明)、天智、天武、文武など代々の天皇が造営・維持に努力した寺とされていますが、不自然な点がいくつもあります。そこで、この縁起を検討し、考古学の成果と比べてみたのが、
上原真人「二 熊凝精舎と額田寺」
(『古代寺院の資産と経営-寺院資材帳の考古学-』「第一章 縁起と考古学が語る大安寺前史」、すいれん舎、2014年)
です。上原氏は、歴史学者でありながら考古学も扱える数少ない一人です。
さて、『大安寺縁起』の原本は現存せず、現在残っているのは奈良の正暦寺に伝えられてきた写本ですが、原本を忠実に写そうとしており、文献の価値は高いとされています。
それによれば、推古天皇が田村皇子(後の舒明天皇)に命じ、病気になった聖徳太子を飽波葦墻宮に派遣すると、太子は、自分は熊凝村に道場を建てたが、これを過去・現在・未来の天皇のための大寺としたいと願っていると述べ、田村皇子がこれを推古天皇に伝えた。その三日後、田村皇子が個人的にまた太子を見舞うと、喜んだ太子は、熊凝寺を田村皇子に託した。
田村皇子は舒明天皇として即位すると、百済川のかたわらに九重塔を建て百済大寺としたが、焼失したため後事を皇后(皇極天皇)に託した。皇極天皇は造営を始めたが完成せず、後事を天智天皇と仲天皇に託した。天武天皇が寺の土地を高市に移し、678年に寺の名を高市大事から大官大寺に改めた。持統天皇が鐘を鋳造させ、孫の文武天皇が九重塔と金銅と本尊を造った。聖武天皇が広大な墾田地を施入した、となっています。
上原氏は、まず、大安寺の縁起であるのに平城京の大安寺の名が出てこないことに注意します。大安寺という名自体は、藤原京時代の大宝元年(701)の記事が『続日本紀』に見えており、大官大寺をそう呼んでいるものの、天平19年当時は平城京の大安寺は造営が始まったばかりであって、塔の着工すらなされていなかったと上原氏は指摘します。そのため、大安寺に関する記述を控え目にしたのだというのが上原氏の推測です。
ここでは聖徳太子に関わる熊凝精舎に関する上原氏の説明を見ていきましょう。まず、「熊凝村」にあったと記されているものの、古代の行政区画では、「郷・里」はあっても「村」はありません。ただ、「村」の語はこの当時の文献には多少見えているため、行政区画でない実質的な地域のまとまりを「村」と呼んでいたとする説に賛同します。
そして、飽波宮と同じ斑鳩文化圏にあった額田寺を熊凝精舎の後身と見る説が有力であるとし、その理由は、大安寺造営に尽力した道慈が額田氏の出身だったためとし、額田寺の検討に移ります。額田寺については、奈良時代の描かれた絵図である「額田寺伽藍並条里図」が残っており、現在は大和郡山市の額安寺となっており、絵図に描かれた地形の一部がよく残っています。
そして、額安寺付近で採取された古代の瓦から、その変遷が推定できるのです。上原氏は、自らその瓦の整理をおこなっており、①創建期(7世紀前半から中葉)、②充実期(7世紀末から8世紀前葉)、③再整備期(8世紀中葉)、④存続期(8世紀末以降)に分けます。
創建期の瓦は、古新羅系と言われていたのですが、橿原市の和田廃寺(葛城寺)の瓦と類似するものがある由。また、1点だけですが、7世紀初頭にさかのぼる法隆寺若草伽藍で用いられた手彫唐草文軒平瓦が出土しています。
また、充実期である②の瓦には、法隆寺再建の際に用いられた法隆寺式軒瓦が数多く出ています。このタイプは、関連する法輪寺・法起寺などが7世紀後半に整備されていく際に用いられたものですが、同笵のものが見当たらないため、額田寺が独自に制作したものと上原氏は説きます。
上原氏は、熊凝精舎が額田寺となった直接の証拠はないとしつつ、こうした瓦の検討結果から見て、『大安寺縁起』が記している伝承は、「まったく否定すべき伝承ともいいきれない微かな可能性と残す」と述べます。
一方、百済大寺・大官大寺の建物と瓦については、額田寺との接点はほとんど認められないとし、『大安寺縁起』を見ても、熊凝精舎の法灯が百済大寺に受け継がれたとは読み取れないとします。
となると、額田寺と聖徳太子・法隆寺の関係は認められても、太子の熊凝精舎から舒明天皇の百済大寺へという流れはあやしいということになるでしょう。