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聖徳太子は天皇だった?:門脇禎二「聖徳太子ー斑鳩の大王ー」

2023年10月16日 | 論文・研究書紹介

 前回、半沢英一氏の聖徳太子倭王論を紹介しました。半沢氏が自説の先行例としてあげたのが、聖徳太子は大王(天皇)だったと説いた、

門脇禎二「聖徳太子ー斑鳩の大王ー」
(門脇禎二・鎌田元一・亀田隆之・栄原永遠男・坂本義種『知られざる古代の天皇』、学生社、1995年)

でした。半沢氏はこれを「卓見」と評価しつつ、天皇とは異なる「倭王」の存在に気づいていなかったのは残念と述べています。その門脇説について紹介しておきましょう。

 門脇氏は、「大化改新」論』「第一章第四節 推古朝における田村皇子」(徳間書店、1969年)の段階で、『隋書』倭国伝が描く倭王と『日本書紀』の記述の違いに注意しており、当時の倭王は男性であって厩戸皇子(聖徳太子)だったとしています。

 共産党の雑誌、『文化評論』197号(1977年)での菊地康明氏との対談「聖徳太子と蘇我一族」でも、この点をわかりやすく説いていますので、これらを合わせた形で説明していきましょう。

 つまり、額田部皇女(推古)がある時期に天皇のような地位についていたことは否定しないが、崇峻天皇の後は厩戸王子が実は大王であって、推古は「先の大后」として宮廷にあったと考えて良いのではないか、と述べるのです。

 そして、倭国伝が倭王と呼んでいるのは厩戸王子、妻は「鶏弥(きみ)」と呼ばれているので皇族、つまりは莬道貝蛸皇女であり、「太子を名づけて、利(和)歌弥多弗利となす」の部分は、ワカ(稚・若)・ミ(美)・タフリ[ル](田村)であって、幼い田村皇子と解釈できるとします。

 そして、「天皇」の称号を受け入れたのは後にせよ、前の大后と子どもの大王、あるいは一族の首長的な女性と次の大王の執政形態、つまり「共治」がなされていたのではないかという菊地氏の言葉に賛成します。

 蘇我氏については、蘇我氏内部でも本拠地が様ざまであるとし、本宗家は畝傍から飛鳥に行くあたり、その西には馬子の弟と言われる境部臣氏、竹内街道から河内に向かうあたり、つまり蘇我氏の墓が集中している地域は稻目の娘で欽明の妃であった堅塩媛につながる人々、山田道のあたりに蘇我氏一族の山田臣家、その東北の三輪山付近は稻目の娘で欽明天皇の妃であった小姉君につながる人々という具合で、広い地域の中に蘇我氏の有力なグループが散在しており、蘇我氏系である聖徳太子が斑鳩に移ったのもその一環と説きます。

 そして、天皇家が蘇我氏・大伴氏・物部氏のように経済的基盤や軍事的基礎をもった有力氏族の一つであれば、早くに抗争で潰れていたはずでありながら、天皇を支えて娘を送り込む豪族が次々に交替しても天皇の地位が続いているのは、天皇家が他の氏族と別の性格を持っていたからとします。

 また、聖徳太子は父方母方ともに蘇我氏系である初めての天皇候補であるのに、『日本書紀』はあくまでも皇親という面を強調している、と論じています。これは重要な指摘ですね。

 門脇氏の議論のうちで明らかに無理なのは、一語である「和歌弥多弗利」の「多弗利」を田村皇子(舒明)としたことですね。「村」を「フリ」とか「フル」と訓む例は記紀や『万葉集』の写本の古訓に多く見られると門脇氏は説くのですが、隋の役人に日本の制度を説明する際、固有名詞を出すでしょうか。

 実際、倭王の妻を指すという「キミ」は固有名詞ではなく、皇族であることを意味すると門脇氏は説いているのですから、続く「太子」の説明も、固有名詞ではなく、倭王の跡継ぎとなる子供(たち)を指す一般名詞と見るべきでしょう。

 しかも、600年の遣使の際、田村皇子はまだ8歳です。摂関家や上皇が政治を牛耳り、思うままになる幼帝を立てるような時代ならともかく、推古朝頃に幼児を「太子」と認定するような制度があったとは考えられません。

 門脇氏は、日本語には語頭がラ行で始まる単語はないため、「利歌弥多弗利」は「和歌弥多弗利」で良いとしたうえで、『源氏物語』では、若くて由緒正しい人を「わかんとほり」と呼んでいるため「和歌弥多弗利」はその意味だとした国語学の渡辺三男氏の説(こちら)を紹介し、それだと「太子のことを日本ではワカミタフリ」と呼んだという意味になって落ち着かない述べています。

 渡辺説の後、「わかんとほり」は王族の意であるとする指摘がなされているため、別に落ち着かないことはないと思いますね。この前の時代は、欽明天皇の子供たちのうち、欽明天皇と先帝の皇女である広姫との間に生まれた敏達がまず即位し、次に、欽明と蘇我稻目の娘である堅塩媛の間に生まれた用明、ついで欽明と稻目の娘の小姉君の間に生まれた崇峻が即位し、その後で欽明と堅塩媛の間に生まれ、用明の妹となった推古が即位しています。

 つまり、その世代の皇族のうちの適任者がほぼ年齢順に即位し、その世代で適任者がいなくなると、次の世代に移るというシステムでした。大王の子供たちが後継候補者たちなのですから、王族を指す「わかんとほり」の語が「太子」にあたる存在とされても、別に不思議はありません。

 門脇氏は、「大安寺縁起」によれば、聖徳太子は臨終時に田村皇子に自分の熊凝精舎を与え、寺として守っていくよう遺言したとあるほど信頼していたことを強調し、『隋書』が描く倭王は聖徳太子、その妻は莬道貝蛸皇女、太子は田村皇子だと説くのですが、『日本書紀』では、推古天皇の後継者は明確になっておらず、山背大兄が自薦して運動しており、境部摩理勢などもそれを支持していたことが、はっきり書かれています。

 『日本書紀』編纂当時の天皇は、田村皇子(舒明)の系統ですので、書こうと思えば、推古天皇は田村皇子を厩戸皇子の後継者としてはっきり決めていたとか、皇太子となった厩戸皇子は、次は自分の子の山背大兄でなく田村皇子だと宣言した、などと書けたはずですが、実際には、『日本書紀』は推古天皇が亡くなった時ですら、後継者は明確に決まっていなかった状況を描いています。それに、当時は、大王は群臣会議で決定して推挙する形でしたし。

 門脇氏が聖徳太子天皇説の根拠としてあげているもう一つは、未婚の皇族が伊勢の神に奉仕する斎王です。門脇氏は、皇極(斉明)と持統という女帝の時は斎王は出ていないとし、『日本書紀』用明天皇即位前紀に、酢香手姫皇女を伊勢の神宮に送って奉仕させたとあり、注に、37年間、日神に奉仕して退いて亡くなったとあるが、これだと女帝である推古朝にも斎王であり続けたことになるとします。

 そして、斎王は親が亡くなったり、男性貴族と男女関係になったりするなどの事故がなければ退くことはないが、37年目の年は聖徳太子が崩じた年であり、男帝であった聖徳太子が亡くなった時に斎王も退下したのであれば、つじつまがつくと説きます。

 このため、門脇氏は、推古が小墾田宮で活動したことは認めるものの、大王は聖徳太子であったと見るか、内政は飛鳥の大后であった推古が担当し、対外関係・軍事関係は斑鳩の聖徳太子が大王として担当したのであって、推古が天皇となったとしても、それは聖徳太子没後のことだろう、と述べるのです。

 ここら辺は、推測が重なっていますね。門脇氏の主張のうち、蘇我氏を逆臣とする見方に反対した部分などは納得できるものの、この聖徳太子大王説は、無理があるように思えます。門脇氏は、この説については20年ほど前に発表したのに、反論を含め、反応がまったくないと残念がっています。

 反論が出て論争となり、それによって研究が進めば、どちらが勝っても良いと述べており、これは本気の言葉でしょうが、太子=田村皇子説と斎王退下説だけでは、やはり論争をまきおこすには弱いですね。 

 ただ、門脇氏の議論には、興味深い指摘がいくつも含まれていますので、これはまた別に紹介しましょう。理系と違い、文科系、特に古典や歴史に関する学問の場合、何十年も前の論文が意外に重要だったりしますので。