連載に戻ります。今回は、第2章第1節のうち、
六 中宮寺の創建
七 法輪寺の二つの創建説と三井瓦窯跡
八 法起寺の建立
です。
まず、「中宮寺の創建」では、中宮寺の名の由来に関する諸説が紹介されます。つまり、太子の生母である間人皇后が住んでいたから「中宮」としたとか、斑鳩の諸宮のほぼ真ん中に位置するからといった説であって、この時期に皇后を「中宮」と呼ぶのは無理とします、
ただ、平田氏は、僧寺と尼寺が一体として建立されたと考えられるうえ、天平19年(747)の『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』でも太子建立の七寺の一つとされていることから見て、奈良時代には太子ゆかりの尼寺と見られていたことは疑いないと述べます。
そして、発掘調査の結果が紹介されていますが、良く知られているように、遺構は四天王寺式伽藍配置になっていました。金堂部分は版築が見られ、創建当時は凝灰岩の切石積基壇であって、大きさは東西13.5m、南北10.8mと考えらる由。
塔については遺存状態が悪いものの、基壇は一辺が14m程度と推定されており、後の絵伝から見て、法輪寺のような三重塔であったと推測されています。面白いのは、塔心礎は上面が平滑に仕上げられており、飛鳥時代の古墳の石室用の石材の転用の可能性があるとされていることです。
講堂や回廊の跡は見つかっておらず、絵伝でも明確でないため、造営されていなかった可能性があるようです。
瓦はこれまでもこのブログえで触れたように、若草伽藍金堂の軒丸瓦(3Bb)が二点だけながら発見されています。また、若草伽藍造営に当たって瓦笵が作成され、金堂に用いられた後、楠葉平野山瓦窯に移されて四天王寺の創建時に供給された素弁八弁蓮華文軒丸瓦(4A)も7点発見されています。これらが一体の企画だったことが分かりますね。
この時期よりやや遅れる瓦も出土しており、再建法隆寺の「法隆寺式」軒瓦が多数見られるため、その時期に再建法隆寺、中宮寺、法輪寺、法起寺などで造寺活動が急激に盛んになった様子がうかがわれ、瓦が供給されていたものの、寺による違いも見られるため、同じ系統の工人たちがいくつかのグループに分かれて作業していたと見られる由。
宮殿の遺構は発見されていないうえ、十二月に間人皇后が亡くなった後にその宮を中宮寺に改めたとなると、太子は翌年の二月に亡くなっているため、太子が造営を始めたとは考えにくくなります。平田氏は、間人皇后が亡くなる前に工事が始まっていた可能性があるとしますが、納得できます。
やはり、斑鳩宮と斑鳩寺を平行して造営し、僧寺である斑鳩寺と対になる尼寺もあまり遅れないうちに造営し始めたと見るべきでしょうね。当初は、小さな仏堂のようなものをまず建てていたかもしれませんが。
法輪寺については、「太子建立七寺」には含まれていないものの、病気になった太子が平癒のため、子の山背大兄などに命じて建てさせたという伝説があります。飛鳥時代の面影をとどめていた三重塔は、昭和19年(1944)に落雷によって焼失しました。
戦後、調査が行われましたが、元文4年(1739)に三重塔の修理を行った際、花崗岩製の心礎に空けられた舎利孔から香木に囲まれた金壺が見つかり、中に瑠璃玉、仏舎利、数珠、土器、朱土で作った四天王像があったと、記録に残っています。四天王像という点が興味深いですね。
金堂跡からの出土品により、「法隆寺式」軒瓦が主要な瓦として葺かれていたことが明らかになっていますが、素弁八弁蓮華文軒丸瓦(ⅠA)は、若草伽藍の瓦を作った工人の系統の製作法によっています。
これは、船橋廃寺式と呼ばれるものであって、百済大寺と推定される吉備池廃寺式、山田寺式の軒丸瓦に先行するとさられているため、舒明朝の630年代に成立したと考えられており、これは創建伝承とも合うことになります。そのため、山背大兄が建立した「法輪寺前身寺院」で用いられたと考えられている由。
つまり、山背大兄は、父と同様に僧寺と尼寺の創建を企画し、僧寺として「法輪寺前身寺院」、尼寺として法起寺の建立に着手したものと平岡氏は推測します。入鹿の襲撃によって上宮王家が亡びたため、造寺活動は停滞したものの続いていき、法隆寺再建の時期にまた造寺活動が盛んになったと見るのです。
『補闕記』では、百済聞師、円明師、下氷居新物などの3人が寺を造ったとされているため、平岡氏は、この3人が「法輪寺前身寺院」を再興する形で法輪寺を造営したのであって、出土した文字刻印瓦や線刻画瓦などは行基建立の大野寺土塔の文字瓦に通じるものがあるため、知識瓦の萌芽を見いだすことができるのではないか、と述べます。多くの人たちの助力によって建立されたとするのですね。
法輪寺と法起寺の中央やや北寄りのところにあるのが、三井瓦窯跡です。ここからは古瓦の破片が多数出土しており、斑鳩で法隆寺が再建され、法輪寺、法起寺、中宮寺の造寺活動が盛んになる時期に操業していたことが判明しています。
その法起寺は、岡本宮跡の推定地に建っており、我が国最古の三重塔で知られています。『聖徳太子伝私記』所載の「法起寺塔露盤銘文」によれば、聖徳太子が山背大兄王に岡本宮を寺に改めるよう遺言したとされていました。舒明天皇10年(638)に、僧福亮が弥勒像を造って金堂を建て、天武14年(685)に恵施僧正が塔の造営を始め、慶雲3年(706)に露盤をあげて完成したとされています。
この露盤銘ついては諸説あって論争となっていましたが、創建当時は、法隆寺式伽藍における金堂と塔の位置を入れ替え、中門を発した回廊が金堂と塔を囲んで講堂に取りつく独自の形であって、法起寺式伽藍配置と言われています。創建当時の本尊については不明ですが、7世紀中頃に製作されたと推定される像高20cmの金銅製(伝)虚空蔵菩薩像が伝えられています。
法起寺については、13回の調査がなされており、瓦は三つの時代のものが出ています。最も古いのは、法起寺前身の岡本宮時代と思われるもので、第二期と第三期が飛鳥時代の法起寺のものと考えられています。第二期のものは、船橋廃寺式の軒丸瓦の外縁部分に圏線が巡っているタイプであって、630年代のものであり、これが創建瓦と考えられます。
軒平瓦としては、法輪寺で出土するものと同じものが1点、見られる由。法輪寺の瓦を転用したと考えられるそうです。
第三期は、三井瓦窯で同笵の軒丸瓦が発見されているため、ここで焼かれたもののようで、再建法隆寺でも見られ、付近の平隆寺や額安寺にも類例があるとか。ただ、法隆寺とは異なる瓦も見られるため、上で書いたように、平岡氏は法隆寺系の工人がいくつかのグループに分かれて作業したと見ています。