前回の続きです。今回とりあげるのは、斑鳩町教育委員会の平田政彦氏が担当した「第二章 考古学からみた斑鳩の古代」「第一節 飛鳥時代」のうち、
一 飛鳥時代の幕開け
二 斑鳩に造営された斑鳩宮
三 法起寺下層遺構と岡本宮
です。これだけで37頁あります。平田氏については、このブログで何度か触れてます。
平田氏は、藤ノ木古墳造営以前の斑鳩は、古墳や集落のあり方を見てもわかるように、大和の中で先進的とは言えない地域だったが、聖徳太子の斑鳩移住によって、様相が一変したと述べます。冠位十二階や十七条憲法の制定、遣隋使派遣といった試みがなされていた時期における太子の拠点が斑鳩だったのです。
斑鳩は交通の要衝ではあったものの、耕作地が広がる豊かな地域ではありませんでした。それにもかかわらず、斑鳩宮をはじめとする上宮王家の諸宮が次々に造営され、太子による法隆寺と尼寺の中宮寺、山背大兄発願の法輪寺前身寺院と尼寺の法起寺などが建立され、飛鳥にならぶ先進地域となりました。
斑鳩移住前に太子が住んでいた「上宮」の場所については諸説があります。その一つが桜井市の上之宮遺跡ですが、ここについては、阿倍氏の本拠地であったという説もあります。最近では、その東の「池之内」の地から大規模な堤状の遺構が発見されたため、この東池尻・池之内遺跡が古代の磐余池であれば、この近くに「磐余池邉双槻宮」が造営され、その南に「上宮」があった可能性があるということになっています。
『日本書紀』では天皇の宮以外では宮の名が記されることは少ないのに対し、斑鳩宮は三度も言及されており、特別な存在だったことが分かります。平田氏は数多くなされた斑鳩宮の発掘調査のそれぞれの回について簡単に記しており、考古学調査そのものの発展の様子も分かります。
というのは、昭和9年(1934)に始まった第一次調査では、たまたま見つかった柱の穴などを調べるのではなく、四角く区切った地面を丁寧に掘って土の色や地質の違いによって遺構を調べる方法が確立された由。日本の仏教関係の考古学・建築史・美術史は、法隆寺をめぐって発達していったのです。
さて、法隆寺東院の下層から発見された斑鳩宮跡からは、小型の素弁六弁蓮華文軒丸瓦(2A)、単弁忍冬文装飾六弁蓮華文軒丸瓦(33B)、これと組む軒平瓦(215A)が発見されています。ただ、宮に瓦葺きを採用したのは藤原宮だと記録にあり、斑鳩宮跡の建物は掘立柱によるものであるうえ、出土した瓦はすべて小型で数も少ないため、これらの瓦は宮内の仏堂に葺かれたものと推定されています。
斑鳩宮は、『日本書紀』によれば入鹿の軍勢によって焼かれたとされており、現在の伝法堂の東南隅あたりからは、その記述を裏付けるような焼けた壁土が発見されました。この壁土は長らく行方不明になっていたのですが、2020年に法隆寺に保管されていたことが明らかになりました。残存の状況は良好でないものの、仕上げとして白土を塗っていた可能性がある由。
ただ、若草伽藍の焼けた壁土と比べると、焼けたというより壁面が火にさらされた程度と見れるそうで、この付近から上記の瓦が出土していることから見て、斑鳩宮内の小さな仏堂に塗られていた壁土と考えると理解しやすいと、平田氏は述べます。つまり、山背大兄が斑鳩宮の南東部に小仏堂を設け、そこで聖徳太子の供養や、上宮王家の私的な仏教信仰がなされていたのではないかと推定するのです。
以下、平成24年の第九次調査まで調査が重ねられていますが、建物が左右対称に設置されていたと推定される小墾田宮と違い、斑鳩宮は皇子宮であるうえ、地形の制約もあってか、建物が左右対称に設置されるような作りではなかったようです。