昨年、数回にわたって紹介した2018年刊行の『法隆寺史 上巻』(こちら)は、20年以上前に企画が動きだし、刊行が遅れていたものでした。 それでも着実な研究の成果が示されていますが、今回、とりあげるのは、令和3年4月に法隆寺で営まれた「聖徳太子一四〇〇年御遠忌」法要をきっかけとし、昭和38年に刊行された『斑鳩町史』の全面改訂版として昨年刊行された、
斑鳩町史編さん委員会編『新修 斑鳩町史 上巻』(斑鳩町、2022年)
です。
ですから、まさにこの数年の編集であって、聖徳太子や法隆寺を柱とする斑鳩の歴史に関する最新の成果が盛り込まれています。電話帳のような大きさで661頁、しかも2.6キロほどあり、カバンに入れて持ち運ぶのは勘弁してほしいほどずっしりと重いです。
それほど重いのは、口絵の部分だけでなく、カラー写真をふんだんに入れるために、すべて厚手の光沢紙を用いているからであって、贅沢な作りになっているからです。むろん、内容も充実しています。
口絵写真、町長の「発刊によせて」に始まり、以下のような構成になっています。太子や法隆寺に関する箇所以外は省略します。
【考古篇】
第一章 斑鳩の先史・原史
……
第四節 古墳時代
四 藤ノ木古墳が語るもの
第二章 考古学からみた斑鳩の古代
第一節 飛鳥時代
一 飛鳥時代の幕開け
二 斑鳩に造営された斑鳩宮
三 法起寺下層機構と岡本宮
四 聖徳太子薨去の宮「飽並葦墻宮」
五 若草伽藍の創建
六 中宮寺の創建
七 法輪寺の二つの創建説と三井瓦窯跡
八 法起寺の建立
九 法隆寺西院伽藍の成立
十 斑鳩における飛鳥時代の古墳の様相
第二節 奈良時代
一 奈良時代の斑鳩の様相
二 法隆寺西院伽藍の完成と整備
三 上宮王院(法隆寺東院伽藍)の建立
……
【古代篇】
第一章 ヤマト王権と斑鳩
第一節 斑鳩と記紀の伝承
第二節 斑鳩の歴史地理的環境
第三節 斑鳩とその周辺の氏族
第四節 斑鳩とその周辺の部民
第五節 斑鳩宮と上宮王家
第六節 斑鳩の寺院と仏教文化
第二章 律令制下の斑鳩
第一節 奈良時代の斑鳩
第二節 奈良時代の法隆寺と太子信仰
第三節 聖徳太子伝承と斑鳩
……
以上です。担当は、考古学篇第一章は光石鳴巳、第二章は平田政彦、第三章は森下恵介、古代篇第一章の第一節~第五節、第二章の第一・四節は鷺森浩平、第一章第六節、第二章第二~三節・第五節は東野治之の各氏です。
まず、光石氏が担当した第一章第四節「四 藤ノ木古墳が語るもの」では、法隆寺のすぐ側に位置する藤ノ木古墳について、発見の経緯や調査の詳細が報告されています。光石氏は、石室での石材の用い方が上半分と下半分で異なっているため、建築の途中で計画の変更があったことが分かるとします。そして、埋葬物には花粉が大量に見つかっているため、埋葬は初果の頃だったと推定されていると述べます。
石棺に収められた二人の被葬者については、物部氏がかついで天皇としようとして蘇我馬子によって殺された穴穂部皇子と宅部皇子とする説が有力ですが、『日本書紀』によれば、二人が殺されたのは、用明2年(587)6月ですので、それと一致することになります。
被葬者の一人は20歳くらいと推定されていますが、それが誰であるにせよ、古墳が6世紀後半では最大クラスの円墳であって、当時としては最高水準の金属製品が収められていたことは、その身分の高さを示すものです。光石氏は、被葬者は聖徳太子が生まれたという敏達3年(574)の前後に若くして亡くなったのであって、その20~30年後に聖徳太子がこの地に移住してきたことに注意します。
光石氏は、それ以上のことは述べていませんが、上記の事柄は、聖徳太子と関係が深いため、斑鳩寺(若草伽藍)は、藤ノ木古墳と何らかの関係があった可能性がありますね。確かに、太子はこのことについて意識せざるを得なかったでしょうから。
なお、藤ノ木古墳がこうして守られてきたのは、古墳の南にあって江戸時代に焼失するまで続いていた宝積寺の尼僧が供養していたためと推測されているそうです。
被葬者が穴穂部皇子であれば、太子の父母の兄弟であるうえ、太子の母の名は穴穂部間人ですから、母と同じ氏族に養育された可能性が高いため、関係はより濃かったということになります。間近な斑鳩宮に住んだ太子は、そうした被葬者を意識せざるを得なかったでしょう。