聖徳太子研究の最前線

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斑鳩と飛鳥を斜め一直線に結ぶ太子道:甲斐弓子「筋違道設定に至る道程」

2020年10月03日 | 論文・研究書紹介
 「聖徳太子はいなかった」説の大山誠一氏は、『日本書紀』に見える太子の業績の多くは、最終編纂時に藤原不比等・長屋王・道慈が協議して一気に創作したという立場であって、モデルとして実在したのは、斑鳩などという離れた土地におり、国政に参加するほどの力はなかった、ぱっとしない皇族の厩戸王だとしています。あと、奈良時代の行信や光明皇后も、太子関連文物の偽作・捏造をやってのけたとしています。いわば陰謀作成説ですね。

 このため、『日本書紀』や他の文献・碑銘などの文字史料だけをとりあげ、後からの作文だ、偽作だとして片っ端から切っていったものの、考古学や美術史学の成果、つまり具体的な「物」に関する研究は考慮しませんでした。太子実在説という誤った前提で研究しているからということで、信用していなかったようです。

 ただ、「物」についても検討しないわけにはいかないでしょう。たとえば、20キロほどある斑鳩と飛鳥の間を斜め一直線に結び、太子が馬で往復したとされる太子道(筋違道)は、ぶつぶつと切れた形で遺構が発見されています。考古学による発掘結果によれば、道幅は20メートルから30メートルもあったと推測される由。

 斑鳩を本拠とする太子の一族が滅ぼされた後になって、斑鳩と飛鳥の都を結ぶこんな広い道路が建設されるとは考えられません。また、太子の死後は、長男である山背大兄が斑鳩宮を継ぎますが、山背大兄は、『日本書紀』その他の古代文献による限りでは、荘園などをかなり有していたものの、高い役職にはついておらず、権勢を振るっていたようには見えません。

 となると、太子道は、太子の生存中に、官道として、つまり国家事業として建設された可能性が高くなります。そうした立場で、発掘資料などを利用して書かれた論文が、

甲斐弓子「筋違道設定に至る道程」
(『 帝塚山大学考古学研究所研究報告』11号、2009年3月)
同「筋違道設定に至る道程(承前) 」
(同12号、2010年3月)

です。甲斐氏は、古代の寺々は、交通の拠点に建立され、しかも回りに高い柵をめぐらすなどしているため、戦争時には軍事施設としても使えるよう配慮して建設されたと論じた『わが国古代寺院にみられる軍事的要素の研究』(雄山閣、2010年)で知られる考古学の研究者です。

 筋違道は、斑鳩と飛鳥を結ぶ最短の道だから建設された、あるいは、外国使節を迎えるための立派な道路として建設されたとする説が有力ですが、それだけが理由なのかと甲斐氏は疑います。そして、上記の著作が示すように、甲斐氏は軍事面を重視する研究者ですので、推古朝当時は高句麗・百済・新羅の三国の抗争時代であったこと、また日本と新羅との関係が悪化し、征討軍が派遣されることになって準備が進んだものの、中止になったことなどに注目します。

 そこで、斑鳩から飛鳥までを斜めに結ぶ道が既に有って、それを拡張整備した可能性を認めつつも、筋違道の重要な役割は、いざという時に斑鳩から飛鳥まで安全に行き着くための経路という面が大きかったと推測します。

 これはどうでしょうかね。甲斐氏のこの2論文は、発掘調査などに関するいろいろな情報が示されていて有益ですが、最短の整備された道であれば、外国軍であれ国内の反乱軍であれ、敵も利用しやすいのではないでしょうか。途中にけわしい峠などがあり、そこを封鎖すれば敵を遮断しやすいのでこの経路を作った、とかなら分かりますが、筋違道は平坦な地域を縦断する道です。

この筋違道については、甲斐氏も参照している発掘報告書が出ていますので、次回はそれを紹介しましょう。