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太子道の発掘:唐古・鍵考古学ミュージアム『太子道の巷を掘る』

2020年10月08日 | 論文・研究書紹介
 斑鳩の東南にあたる川西町や三宅町田原本周辺には、若草伽藍や斑鳩宮跡や法起寺下層跡などと同様に、真北より西に22度ほど傾いた道路跡が残っています。これが『聖徳太子伝私記』が「須知迦部(すちかへ)道」と呼んでいる筋違道、つまり太子道の跡です。

 保津・宮古遺跡の第14次調査では、道路跡の西側に幅3メートル、深さ50センチほどの側溝がくっきりと掘られ、斑鳩方面に向かって続いているのが発見され、この側溝は22度西に傾いていました。これによって、太子道の存在が証明されたのです。側溝の下層から出土した土器は、6世紀後半の製作と推定されていますが、『日本書紀』によれば、厩戸皇子が斑鳩で宮の建築を始めたのは推古9年(602)、移り住んだのは推古13年(606)ですので、まさにその少し前です。

 こうした調査について簡単に紹介したのが、田原本町の唐古・鍵考古学ミュージアムが平成18年度春期企画展の図録として刊行した『太子道の巷を掘る~保津・宮古の遺跡と文化財~』(2006年4月)です。この図録には側溝の様子や、この付近から出た土器や建物の掘立柱穴跡などが豊富なカラー写真を添えて紹介されています。

 道路の両側に掘られたはずの側溝がそれぞれ3メートル程度の幅なのですから、道幅がどれほど広かったか想像できるでしょう。現在のところ、太子道そのものの幅は20メートルほどであったと推測されています。これまで太子道の幅は20メートルから30メートル程度と推定されていて差があるのは、側溝を含めるかどうかという点も関わっているのでしょう。

 斑鳩寺の前を橫に走っていた道は、この何倍も広かったと言われています。それはともかく、太子道がこのような規模のものだった以上、厩戸皇子は蘇我馬子との権力闘争に敗れて斑鳩の地に隠棲したとか、厩戸王は都から遠く離れた斑鳩の地で暮らしていたぱっとしない皇族であって国政に関わる力はなかった、などとする説は成り立たないことが分かります。
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