予告されていた本が刊行され、本日、「著者」よりの献呈ということで、平凡社から届けられました。編者からなのか、著者のうちのお一人からなのか、何名かの共同献呈なのか分かりませんが、有り難うございます。
大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』
(平凡社、2011年6月、2400円)
です。
驚いたのは、宣伝用の帯に「厩戸皇子はなぜ<聖徳太子>になったのか?」と書かれていたことですね。実在したのは「厩戸王」であって聖徳太子は架空の存在だ、というのが大山説のはずですが、今回は様々な立場の人が書いているためなのか、「厩戸皇子」となってます。こういうものは、出版社側でつけるものですが。
まず、目次をあげておきましょう。今回の本は、中部大学国際人間学研究所編『アリーナ 2008』(2008年3月)の「天翔る皇子、聖徳太子」という、内容にそぐわない梅原猛風な名の特集を一般読者向けにする企画だったようですが、その特集の原稿とほぼ同じ内容の人もいれば、大幅に改めた人、また全く別な論文を書いた人など、様々です。◯は前回の『アリーナ』特集の執筆者、◎は大山誠一編『聖徳太子の真実』(平凡社、2003年)の執筆者です。
序論: 『日本書紀』の解明に向けて 大山誠一
第Ⅰ部:『日本書紀』の謎をめぐって
記紀の編纂と<聖徳太子> 大山誠一 ◯◎
『日本書紀』の謎は解けたか 井上 亘
第Ⅱ部:中国諸文獻と『日本書紀』
『隋書』倭国伝について 榎本淳一 ◯
『日本書紀』の文章表現における典拠の一例
--「唐実録」の利用について-- 原口耕一郎
『日本書紀』と祟咎
--「仏神の心に祟れり」に至る言説史 北條勝貴 ◯
上宮王家滅亡の物語と『六度集経』 八重樫直比古◯
第Ⅲ部:<聖徳太子の虚実>
四天王寺と難波吉士 加藤謙吉◯◎
百済弥勒寺「金製舎利奉安記」と<聖徳太子> 瀬間正之◯◎
飛鳥仏教と厩戸皇子の仏教と『三経義疏』 曾根正人◯
天寿国曼荼羅繍帳の成立 野見山由佳◯
あとがき (執筆者全員による小文)
大学の役職で忙しかったのか、聖徳太子非実在説の闘将である吉田一彦さん(◯◎)が書いていないのは残念ですね。『アリーナ』の特集論文のうち、榎本氏の論文、そして曾根さんの論文は既にこのブログで紹介してあります。
また、瀬間さんの論文は、『アリーナ』特集ではなく、『上代文学』所載論文の増補版ですね。その論文については、執筆段階で瀬間さんとメールで盛んにやりとりをし、このブログの第一回目の記事でとりあげたものだけに、こうして更に追求が深められているのを見ると感慨深いです。
大山氏の序論は、『日本書紀』において<聖徳太子>像が成立したとする自説を概観し、『日本書紀』を研究するうえでの注意点に触れたのち、本書の構成を説明し、それぞれの論文の趣旨と意義を説いたものです。大山論文の方では、『古事記』に関する新説や『日本書紀』編纂における豪族の関与などが説かれていますが、今回の本では、不比等・長屋王・道慈が実在の「厩戸王」を元にして<聖徳太子>を創作した、という立場を明確に打ち出して書いているのは、大山氏だけですね。
井上論文は森博達さんの『日本書紀』区分論に対する激しい批判、原口論文は題名通りで、特に詔勅における利用に注意したもの。北條論文は、「仏神の心に祟れり」という問題を中心として崇仏の是非をめぐる争いの記事は中国の図式に基づく創作物語とし、道慈については何らかの形で『日本書紀』関与したとしつつも、述作者個人を明らかにするのは困難と述べます。八重樫論文は、上宮王家滅亡物語は旧訳経典に基づく可能性が高いため、『日本書紀』編纂の最終段階での創作とする推定は成り立たないだろうとします。加藤論文では、四天王寺は新羅・任那との交渉を担当した難波吉士氏が「厩戸王子」とは無関係に創建したとし、四天王寺を支えた勢力を明らかにしたものですが、推古15年前後の10年間は「廐戸王子が王族を代表して蘇我馬子と共同執政を行っていた」という以前の自説をそのまま用いてます。
瀬間論文は、新発見の百済の金石文と三経義疏や推古朝遺文の関係の深さを指摘する一方、推古朝遺文は七世紀末以降の成立と説き、曾根論文はかつての三経義疏中国撰述説賛成の立場を改め、「厩戸皇子」の仏教の師の学系を検討して三経義疏百済僧作の可能性を示唆し、野見山論文は「天寿国繍帳」銘文は8世紀末以降であり、太子伝風な外区はさらに10世紀以後に加えられた可能性があるとしています。
このように、聖徳太子関連の事績と言われるものを否定する論文も多いものの、立場は様々であり、『聖徳太子の真実』や『アリーナ』の頃と比べ、何人もの著者がいろいろな面で少しづつ変わってきています。以下、大山氏の序論を初めとして、いくつかの論文について、個別にとりあげていきます。
【追記 2011年7月6日】
加藤論文のところで、四天王寺を厩戸王子追善の寺と書いてありましたが、それは田村圓澄説であって、加藤論文はそれをある程度評価しつつ、批判していますので、訂正しました。加藤論文については、2度に分けて詳説してあります。
大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』
(平凡社、2011年6月、2400円)
です。
驚いたのは、宣伝用の帯に「厩戸皇子はなぜ<聖徳太子>になったのか?」と書かれていたことですね。実在したのは「厩戸王」であって聖徳太子は架空の存在だ、というのが大山説のはずですが、今回は様々な立場の人が書いているためなのか、「厩戸皇子」となってます。こういうものは、出版社側でつけるものですが。
まず、目次をあげておきましょう。今回の本は、中部大学国際人間学研究所編『アリーナ 2008』(2008年3月)の「天翔る皇子、聖徳太子」という、内容にそぐわない梅原猛風な名の特集を一般読者向けにする企画だったようですが、その特集の原稿とほぼ同じ内容の人もいれば、大幅に改めた人、また全く別な論文を書いた人など、様々です。◯は前回の『アリーナ』特集の執筆者、◎は大山誠一編『聖徳太子の真実』(平凡社、2003年)の執筆者です。
序論: 『日本書紀』の解明に向けて 大山誠一
第Ⅰ部:『日本書紀』の謎をめぐって
記紀の編纂と<聖徳太子> 大山誠一 ◯◎
『日本書紀』の謎は解けたか 井上 亘
第Ⅱ部:中国諸文獻と『日本書紀』
『隋書』倭国伝について 榎本淳一 ◯
『日本書紀』の文章表現における典拠の一例
--「唐実録」の利用について-- 原口耕一郎
『日本書紀』と祟咎
--「仏神の心に祟れり」に至る言説史 北條勝貴 ◯
上宮王家滅亡の物語と『六度集経』 八重樫直比古◯
第Ⅲ部:<聖徳太子の虚実>
四天王寺と難波吉士 加藤謙吉◯◎
百済弥勒寺「金製舎利奉安記」と<聖徳太子> 瀬間正之◯◎
飛鳥仏教と厩戸皇子の仏教と『三経義疏』 曾根正人◯
天寿国曼荼羅繍帳の成立 野見山由佳◯
あとがき (執筆者全員による小文)
大学の役職で忙しかったのか、聖徳太子非実在説の闘将である吉田一彦さん(◯◎)が書いていないのは残念ですね。『アリーナ』の特集論文のうち、榎本氏の論文、そして曾根さんの論文は既にこのブログで紹介してあります。
また、瀬間さんの論文は、『アリーナ』特集ではなく、『上代文学』所載論文の増補版ですね。その論文については、執筆段階で瀬間さんとメールで盛んにやりとりをし、このブログの第一回目の記事でとりあげたものだけに、こうして更に追求が深められているのを見ると感慨深いです。
大山氏の序論は、『日本書紀』において<聖徳太子>像が成立したとする自説を概観し、『日本書紀』を研究するうえでの注意点に触れたのち、本書の構成を説明し、それぞれの論文の趣旨と意義を説いたものです。大山論文の方では、『古事記』に関する新説や『日本書紀』編纂における豪族の関与などが説かれていますが、今回の本では、不比等・長屋王・道慈が実在の「厩戸王」を元にして<聖徳太子>を創作した、という立場を明確に打ち出して書いているのは、大山氏だけですね。
井上論文は森博達さんの『日本書紀』区分論に対する激しい批判、原口論文は題名通りで、特に詔勅における利用に注意したもの。北條論文は、「仏神の心に祟れり」という問題を中心として崇仏の是非をめぐる争いの記事は中国の図式に基づく創作物語とし、道慈については何らかの形で『日本書紀』関与したとしつつも、述作者個人を明らかにするのは困難と述べます。八重樫論文は、上宮王家滅亡物語は旧訳経典に基づく可能性が高いため、『日本書紀』編纂の最終段階での創作とする推定は成り立たないだろうとします。加藤論文では、四天王寺は新羅・任那との交渉を担当した難波吉士氏が「厩戸王子」とは無関係に創建したとし、四天王寺を支えた勢力を明らかにしたものですが、推古15年前後の10年間は「廐戸王子が王族を代表して蘇我馬子と共同執政を行っていた」という以前の自説をそのまま用いてます。
瀬間論文は、新発見の百済の金石文と三経義疏や推古朝遺文の関係の深さを指摘する一方、推古朝遺文は七世紀末以降の成立と説き、曾根論文はかつての三経義疏中国撰述説賛成の立場を改め、「厩戸皇子」の仏教の師の学系を検討して三経義疏百済僧作の可能性を示唆し、野見山論文は「天寿国繍帳」銘文は8世紀末以降であり、太子伝風な外区はさらに10世紀以後に加えられた可能性があるとしています。
このように、聖徳太子関連の事績と言われるものを否定する論文も多いものの、立場は様々であり、『聖徳太子の真実』や『アリーナ』の頃と比べ、何人もの著者がいろいろな面で少しづつ変わってきています。以下、大山氏の序論を初めとして、いくつかの論文について、個別にとりあげていきます。
【追記 2011年7月6日】
加藤論文のところで、四天王寺を厩戸王子追善の寺と書いてありましたが、それは田村圓澄説であって、加藤論文はそれをある程度評価しつつ、批判していますので、訂正しました。加藤論文については、2度に分けて詳説してあります。