聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

厩戸王を善玉、馬子を悪玉とする歴史小説風な聖徳太子論: 田村圓澄『飛鳥時代 倭から日本へ』

2011年06月14日 | 論文・研究書紹介
 田村圓澄先生の『聖徳太子』(中公新書、1964年)は印象深い本でした。大学に入ってしばらくした頃に読んだのですが、太子を悩む人間として描いているうえ、三経義疏については偽作説もあると述べるのみで全くとりあげていないので驚きました。聖徳太子に関する学術的な本を読むのは初めてだったため、非常に新鮮に思われたことを覚えています。そうした斬新な内容が中公新書という手軽な形のうちに程よくまとめられていたのですから、数十版を重ねる人気となり、研究者と一般読者たちに大きな影響を与えたのは当然です。

 田村先生は、50代半ばから日本古代史と韓国仏教の関係の深さに気づいて盛んに研究を発表するようになり、平成11年には、蔵書を韓国に寄贈されています。日本古代史研究者が韓国仏教に着目するようになった原因の一つは、田村先生の著作でしょう。その他にも、先生の功績は多大なものがあります。

 ただ、先駆者には先駆者ならでは問題点もあります。田村先生の場合、その主なものは、氏族仏教から国家仏教へという図式を打ち出したこと、そして、聖徳太子に共感し、また韓国仏教の影響を重視するあまり、花郎や弥勒信仰を中心にした新羅仏教が太子や以後の日本仏教に与えた影響を過度に強調したことでしょうか。

 1917年生まれである先生の飛鳥時代研究の総結といった感じで書かれている今回の『飛鳥時代 倭から日本へ』では、末尾の「おわりに」は、次のように結ばれています。

「厩戸王に導かれ、厩戸王に学び、『飛鳥時代』の『歴史』像を見出す因縁に恵まれたことは、私にとって、かけがえのない仕合わせであり、悦びである」(167頁)

 困りましたね。第四章の節も「厩戸王の実像」となっていことが示すように、「厩戸王」の語が当然のこととして用いられており、神格化された「聖徳太子」と対比されています。しかし、「厩戸王」というのは、小倉豊文が戦後になって太子の本名として想定したものであって、古代以来、どの文献にも見えないこと、小倉の本の翌年に刊行された『聖徳太子』以来、田村先生はその「厩戸王」という語を論証なしで用いていることは、このブログで指摘した通りです

 資料収集の鬼であった小倉が、文献に見えない「厩戸王」という呼称を敢えて打ち出した背景については、6月4日の日本近代仏教史研究会大会の発表で詳しく論じました(活字になるのは来年です)。それは、天皇の人間宣言を伴う民主主義の時代になった後、「逆コース」と称される社会風潮の中で、戦時中と同様に聖徳太子を神格化し、国家主義的な目的で利用しようとする動きが起きてきたことに反対するためでした。

 そこで、早くから「世間虚仮、唯仏是真」という言葉を人間的な述懐として高く評価してきた小倉は、歴史事実としての「人間厩戸王」、悩み苦しむ一人の人間としての「人間厩戸王」に関する学術的な本を書こうとしたものの、何度も何度も書き直したすえ、結局、断念するに至りました。小倉は、三経義疏については、行信が太子作と宣伝したものだろうとして否定してしまっていたため、文献に厳密であった小倉としては、「人間厩戸王」について書きたくても資料不足で無理だったのです。

 しかし、田村先生は「厩戸王の実像」を柱として飛鳥時代の歴史に関する本を出版されました。なぜ、それが可能になったのか。『飛鳥時代 倭から日本へ』は、史料批判に基づく嚴密な研究書というより、大幅に想像に頼った歴史小説に近いものだったからです。

 この本では、百済と結びつき、百済仏教を導入した蘇我氏は、新羅侵攻派であるのに対し、百姓を思いやる厩戸王は新羅征討に反対であって新羅仏教を受容した人物であり、山背大兄も同様であったから、新羅侵攻派である残忍な入鹿に滅ぼされたという図式です。しかも、中国南朝の仏教を導入した百済仏教と違い、中国北朝系の新羅仏教こそ漢訳仏教の「本流」だという主張が何度も繰り返されています。

 しかし、その新羅仏教に厩戸王を導いたのは慧慈だった、というのですから、驚きです。慧慈は高句麗の僧、すなわち、新羅としばしば争っていた国家から公式に派遣されてきた僧です。田村先生は、以下のように述べます。

「厩戸王は、師である高句麗僧の慧慈とともに、推古政権による新羅攻略に反対しており」(30頁)
「ともあれ高句麗の慧慈は、隋=唐-高句麗の、『北朝仏教』を倭に伝えた。そして厩戸王は『新羅仏教』を受容した」(33頁)

 わけが分かりせんね。そもそも、慧慈が来朝した時、唐はまだ成立していません。高句麗の慧慈が「北朝仏教」を伝えると、厩戸王はそれを「新羅仏教」として受け取るのでしょうか。それとも、田村先生が新羅系渡来氏族だと強調する秦氏や難波吉士氏などから仏教教理を習ったのでしょうか。

 田村先生は、今回の本でも三経義疏の内容に触れていませんが、南朝の梁の仏教に基づく三経義疏をどう位置づけるのでしょう? 藤枝説に従って中国北朝の作と見るのか、伝統説を裏付けた花山信勝・金治勇などの研究に基づいて南朝の注釈に基づく太子の作と見るのか、井上光貞説のように太子のもとでの朝鮮渡来僧たちの作と見るのか、合作と考えるのか、太子没後の日本僧の作とするのか。どのような説でも良いですが、自分なりの見解を示す必要があるはずなのに、何も言われていません。
 
 また、田村先生は、厩戸王や山背大兄は百姓を大切にしてみだりに徴用せず、新羅侵攻に反対であったという点を強調します。しかし、斑鳩宮とセットで建てられた若草伽藍、そして斑鳩の地に次々に建てられた寺、そして斑鳩宮前の広大な直線道路や斑鳩と飛鳥を結ぶ直線道路(筋違い道)をどう考えるのでしょう。仮に農繁期の強制的な徴用は避けたとしても、上宮王家が盛んに建設事業を行ったのは事実です。また、新羅征討の将軍として、厩戸王の実弟と異母兄弟が続けて任命されたことをどう考えるのか。説得力のある説明はなされていません。

 この本では、百済地域における最近の発掘の成果なども、全く触れられていません。「厩戸王に導かれ、厩戸王に学び、『飛鳥時代』の『歴史』像を見出す因縁に恵まれた」とは、要するに、「史料を無視してそのように想像したら、説明がつくように思われた」というのが実際のところではないでしょうか。

 本書には、天照大神と『金光明経』の関係の深さを強調した点その他、有益な記述がいくつも含まれています。しかし、かなりの部分は、上で述べたように、「厩戸王・山背大兄=慈悲=新羅侵攻反対=新羅仏教(仏教本流)」「馬子・入鹿=残忍=新羅侵攻派=百済仏教」といった善玉・悪玉史観に基づく想像です。この図式は、後の天武天皇の事績の説明などにも影響を及ぼしています。しかし、新羅は護国的な仏教信仰に基づいて勇猛に戦い、朝鮮三国を統一したというのが通説であり、田村先生がそうした面を知らないはずはないのですが、「新羅仏教=仏教本流=平和主義 → 厩戸王 」としたい気持が勝ったということでしょうか。

 むろん、研究においては推定するほかない場合が少なくありません。ただ、その際は、推定であることを示すべきでしょう。推古23年に遣隋使が隋から倭の留学僧を一人も連れ帰らずに戻った際、「落胆し、絶望したのは慧慈であった」(35頁)といった断定調の書き方は、梅原猛の著作などと同様、小説の文体です。その時の慧慈の言動を示す資料はまったくありません。歴史書出版の老舗である吉川弘文館から刊行されたこの本は、著名な歴史研究者が書いた歴史小説として読むべきなんでしょう。もっとも、私が一番好きな文学作品は、幸田露伴の晩年の歴史小説なんですが……。