聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

田中英道『聖徳太子虚構説を排す』の問題点(5):高麗尺説は非再建の根拠にならない

2011年02月08日 | 太子礼讃派による虚構説批判の問題点
 戦前における関野貞(1868-1935)の法隆寺非再建説を高く評価する田中氏は、法隆寺の様式の古さを説く関野が、法隆寺は高麗尺(現在の曲尺の1.176倍)、薬師寺東塔は唐尺(現在の曲尺の0.98倍)に基づくと判定したことについて、「この相違は説得力を持ち、非再建説をある意味で決定的なものにした」(29頁)と述べています。

 田中氏は、関野説には反論もなされ、再建時に古い尺度を用いたにすぎないとする説や、高麗尺が廃止されたのは和銅6年(713)であって再建時期にはまだ高麗尺が使われていたとする説も紹介しています。ただ、「これに反対する論は文献に関するもので」という言葉が示すように、田中氏は関野説の方を実地調査に基づく確実なものとして高く評価しており、これを自説の有力な根拠としているようです。
 
 しかし、建築史家の竹島卓一は、高麗尺は和銅6年(713)に廃止されるまで用いられていたうえ、大宝律令以前、とりわけ大化以前はどのような尺度が用いられていたか不明である以上、法隆寺が高麗尺に基づいていたとしても非再建説の決め手にはならないとする法制史家の三浦周行の説が発表されて以来、関野の高麗尺説の当初の目的であった「法隆寺の非再建説を立証しようとする意図」は「全く力を失ってしまった」(竹島『建築技法から見た法隆寺金堂の諸問題』、中央公論美術出版、1975年、160頁)と述べています。竹島は、東京帝大工学部建築学科で関野に習った弟子であって、戦後、法隆寺国宝保存工事事務所長として精密な調査と修理を手がけた学者です。そうした人物が、上記のように明言しているのです。

 同じく法隆寺の修理に関わった建築史の浅野清の場合は、唐尺より高麗尺の方が有利としていましたが、高麗尺で完数が得られたとしても「ただちにその絶対年代を大化以前に決しうるか否かは問題である」(浅野『昭和修理を通して見た法隆寺建築の研究』(中央公論美術出版、1983年、102頁)ことを認めていました。

 また、関野の高麗尺説については、三浦論文のように文献に基づく歴史的研究の立場から批判がなされただけでなく、実地調査に基づく建築学史の立場からも批判がなされています。たとえば、法隆寺の修理にも関わった東洋建築史の大家、村田治郎は、尺度は時代による多少の変動を考慮すべきだとしたうええで、浅野とは反対に、高麗尺ではなく小尺(唐尺)でも説明は可能であり、どちらかと言えば小尺説の方が勝っている場合もあるとしていました(村田「法隆寺の尺度問題」、『仏教芸術』4号、1946年10月)。

 解体調査の際の精密な測定に基づく検討では、高麗尺の方が説明しやすい場合と唐尺の方が説明しやすい場合があるのです。そこで、竹島は関野の弟子であるにもかかわらず、「村田博士の考え方を著者は否定するものではない」(161頁)としてその意義を認めます。そのうえで、唐尺と高麗尺は10対12という対比になっている以上、高麗尺でおおよそ割り切れる対象については唐尺でも割り切れる場合があるのは当然であり、「短い尺度を使った方が、端数が小さくなり勝ちである」ことに注意しています。

 竹島は、関野が平均値をとって高麗尺とした正倉院のものさしは、実際には大小様々な長さになっていたことを明らかにし、関野の高麗尺説は非再建説の論証とはなりえないとしつつも、関野が提唱した「尺度論的研究方法」そのものは、今日でも「古建築の研究上」重要な手段であると高く評価していました。そこで、試行錯誤した結果、関野が想定していたよりやや長めの高麗尺の4分の3に当たる0.75尺が基準となっていた、とする解釈を提示しています。

 高麗尺の0.75尺は、唐尺の9寸に当たります。高麗尺の0.75尺あるいは唐尺の9寸というのは、他にも様々な見解の研究者たちが注目する数字であって、これを基本単位とすると説明できる場合が大幅に増えますが、それでも合わない部分は残ります。つまり、実地調査の側からも関野の高麗尺説は不十分であり、高麗尺にしてもその変形説にしても説明できる部分とできない部分があることが明らかになっているのです。

 法隆寺の場合、金堂・五重塔・中門はそれぞれ微妙に基本単位が違っていたり、同じ建物でも初層と上層では異なる点があるなど、不明な点が多く、研究者泣かせとなっています。このため、法隆寺造営の基準となる尺度ないし基本単位については、以後も様々な説が出されて諸説乱立状態が続いており、定説はまだ確立されていません。

 たとえば、中国を代表する建築史学者の一人で、来日して日本の古寺を調査した傅熹年氏は、「日本飛鳥、奈良時期建築中所反映出的中国南北朝、隋唐建築特点」(『文物』1992年第10期)では、「這0.75高麗尺即中国建筑中的“材高”(この0.75高麗尺とは、中国建築の「材高」にほかならない)」(31頁、原文は簡体字)と述べ、法隆寺は「尺」ではなく、中国古建築の単位である「材」を基本として造営されたとしています。

 また、計量史の分野では、小泉袈裟勝『ものさし』(法政大学出版局、1977年)などは、そもそも高麗尺なる大きさはある時期、田地の計測に用いられたものの、制度として規定され、また実際に発見される古代のものさしは隋唐の大小尺に基づくもののみであり、「高麗尺らしきものさしも、それが用いられたということをあきらかに証明する痕跡も見つかっていない」(74頁)と断言しています。

 法隆寺の尺度に関する建築学史の最近の研究としては、

溝口明則「法隆寺金堂の柱間寸法計画と垂木計画--古代建築の柱間寸法計画と垂木割計画(2)」(『日本建築学会計画系論文集』603号、2006年5月)
同   「法隆寺五重塔の垂木割計画について--古代建築の柱間寸法計画と垂木割計画(3)--」(『日本建築学会計画系論文集』608号、2006年10月)

があります(CiNiiでPDFが見られます)。

 溝口氏は、小尺の「10尺を11枝」に分割する計画を見出し、後者の論文の結論として、「法隆寺の各遺構はいずれも小尺を用い、柱間に限らず丸桁間にも認められたように『総間完数制』の技法が認められる」(141頁)とし、これは山田寺金堂も法起寺三重塔も同様であるとしています。つまり、2006年にもなって、いまだにこうした新説が提示されているというのが、学界の実状です。

 関野はすぐれた建築史学者であって、当時にあっては画期的な研究を行なっており、中には現在でもかなり通用する部分もあるものの、その非再建説は、あくまでも若草伽藍の発掘や法隆寺の解体修理に際して厳密な測定がなされる以前の説、律令制における尺度の研究、建築史や計量史に関する日本・中国・韓国の研究などが進む以前の説なのです。発表当時は説得力を持っていたその高麗尺説にしても、非再建説の決め手にはなりえなくなったことは、関野の弟子である竹島が明言していた通りです。

 田中氏が自らの法隆寺非再建論を説くに当たって、戦前の関根の高麗尺説を高く評価し、「非再建説をある意味で決定的なものにした」と述べるのみで、以後の研究の進展に触れないのは、知らないでのことなのでしょうか、それとも知ったうえでのことなのでしょうか。
この記事についてブログを書く
« 隋とは対等外交だったのか:... | トップ | 渡来氏族を活用した上宮王家... »

太子礼讃派による虚構説批判の問題点」カテゴリの最新記事