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渡来氏族を活用した上宮王家の所領開発: 鎌田宣之「古代信濃と上宮王家」

2011年02月11日 | 論文・研究書紹介
 山背大兄が入鹿の派遣した軍勢に攻められた際、三輪文屋が「深草の屯倉に行き、さらに馬で東国に向かい、乳部を本拠として軍勢を起こせば必ず勝てるでしょう」と勧めたことは良く知られています。

 そうした東国の所領については、これまで甲斐・駿河・伊豆のあたりにあったとされてきましたが、上宮王家にとって重要な財政基盤であった乳部(壬生部)が、信濃の善光寺平にも存在した可能性を探ったのが、

鎌田宣之「古代信濃と上宮王家」
(『信濃』62卷11号、2010年11月)

です。

 上宮王家領として確実なのは、播磨国揖保郡佐西の地、すなわち、厩戸皇子が『法華経』を講じたことを喜んだ推古天皇が布施したとされる百町の土地です。鎌田氏は、『日本霊異記』と『播磨国風土記』の記述から、厩戸皇子領の「水田之司」となった大部屋栖野古が、本貫地であった紀伊国名草郡の開発に当たった渡来系技術者集団を呼び寄せ、その播磨の水田を急激に拡大させたと推測します。そして、厩戸皇子没後も、山背大兄の舎人とされる人物たちが畿内の先進地から渡来系の集団を播磨国揖保郡に投入し、開発を進めたらしいことを示します。

 さらに氏は、『日本三代実録』の記述や七世紀末から八世紀前半の木簡によって信濃に壬生氏や尾張部が存在していたことに注意します。その尾張部が、皇子女の資養の料としての尾張部であったとすれば、推古天皇の第五子であった尾張王、後には舂米女王の第七子である尾張王のためのものであり、上宮王家の家長である山背大兄が管理していた可能性があるとするためです。

 善光寺平については、広範囲にわたって条里的遺構が分布しており、善光寺の前身となった白鳳期の寺院が基準となっていたと想定されていますが、氏は、他に基準となった可能性があるものとして、北限の美和神社、南限の風間神社、「中道」の東端にあたる墨坂神社をあげます。そして、最後まで山背大兄王に仕えたとされる舎人たちのうち、三輪文屋君が美和(三輪)神社、伊勢阿部堅経が伊勢津彦を祀る風間神社、大和の菟田地方で墨坂神を祀った菟田氏である菟田諸石が墨坂神社、という対応が考えられるとし、善光寺平の開発には山背王大兄の舎人たちが関与していたと見ています。

 善光寺如来については、推古天皇10年に信濃に移ったたとする伝承があり、善光寺の建立は上宮王家滅亡の前年である皇極天皇元年(642)とされているほか、善光寺領の開発に安曇連が関わっていたのは、上宮王家滅亡直後に播磨の法隆寺領に隣接する地に難波から安曇連が集団で移住したことと関連があると推測するのです。

 以上、推測による面が多いものの、上宮王家が蘇我氏と同様に、渡来氏族の技術力を活用しつつ所領の開発を進めていったことは疑いありません。田地開発と寺院の建立が平行するのはアジア諸国の通例ですので、上宮王家と東国の関係を示す木簡などがさらに出土することを楽しみにしたいところです。