聖徳太子研究の最前線

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太子の薨去日は慧慈の沒日に合わせたか: 北康宏「聖徳太子--基本資料の再検討から」(3)

2011年02月22日 | 論文・研究書紹介
 前々回と前回の続きです。今回は北氏の論文のうち、『日本書紀』の太子関連記述と太子の事跡に関する北氏の主張を紹介します。

 まず、『日本書紀』では、法隆寺系の史料が使われていないことが知られていますが、北氏はそれは知っていたうえでの意図的な無視と見ます。つまり、「一種の太子伝を日本書紀は採用したのだろう」とする坂本太郎の説を認めたうえで、どのような太子伝を用いたかを検討していくのです。

 その際、氏が重視するのが、慧慈の役割です。『日本書紀』が法隆寺側の二月二十二日薨去説を採らずに二月五日を薨去日としたのは、本来は慧慈の沒日だったためではないかと氏は説きます。つまり、厩戸皇子が「聖」であったことを強調したい『日本書紀』は、国際的な「聖」なる仏教者としてのイメージを打ち出すために、太子を「聖」と認めた慧慈の沒日である二月五日に太子が没したとする太子伝を敢えて用いたとするのです。

 こうした太子伝は、法隆寺系の太子信仰や四天王寺の絵伝系の太子伝とは「異質なものである」(227頁)であり、それを『日本書紀』が利用したのだと氏は説きます。しかし、そうだとすると、その太子伝は、一体どこで作成されたのでしょう。法隆寺、四天王寺、『日本書紀』編纂者たち以外が、国際性を強調した太子伝を作成するというのは、不自然ではないでしょうか。あるいは、四天王寺あたりに別系統の太子伝があったと考えるのか。

 なお、慧慈の沒日条は「太子だけが聖だったのでなく慧慈も聖だったのだ」という結論になっていますが、同じ形式の片岡山飢人条に見える「聖は聖を知る」という表現は、中国の類書(文例百科事典)を用いたものであることは、拙論で指摘した通りです。

 また、『日本書紀』が二月五日を太子の薨去日としたことについては、玄奘三蔵の沒日が「更なる隠喩として利用された可能性もあるだろう」(226頁)と述べられていますが、玄奘沒日説は大山誠一氏の説ですので、そのことを明記しておいてほしかったですね。この論文の末尾の参考文献には、

大山誠一『聖徳太子の誕生』(吉川弘文館、一九九九年)

と大山氏の著書があげられているものの、正しくは『<聖徳太子>の誕生』です。

 次に、「六 聖徳太子の事跡--法王としての政治--」の部分では、推古朝時に「皇」の語が用いられていたかどうか分からないという理由で「厩戸皇子」に代えて「厩戸王子」などと表記する最近の傾向を批判します。「○○皇子」や「皇子○○」は確かに天武朝以降に用いられていますが、「○○王子」といった呼称が国内で称号として用いられた痕跡がないためです。これはその通りですね。

 そして、釈迦三尊像の「法皇」の語は、『日本書紀』の「法大王」や天皇代行に関する記述と対応するとします。馬子とともに「天皇記・国記」を編纂したとある記述も事実と認めます。推古天皇二十年に、蘇我稲目の娘である堅塩媛を皇太夫人として欽明陵に改葬し、天皇以下が誄を奉り、また推古二十七年に欽明陵を整備して各氏族に命じて域外に大きな柱を建てさせたのは、天皇家と蘇我氏の結びつきの最初である欽明天皇に始まる代々の天皇と現体制の確認であって忠誠を誓わせるものであり、太子・馬子の「天皇記・国記」編纂はそうした一連の動きなのだと、氏は説きます。これは以前紹介した北氏の冠位十二階論文と内容が一部重なる議論であり、説得力のある主張です。

 以上のように、個々の説については、賛成できる点と賛成しがたい点があるものの、先入観にとらわれずに基本史料をしっかり読み直すことから始めるという研究姿勢には共感しています(私自身は、これまで知られていなかった出典の解明に基づく読み直しを心がけてます)。様々な問題が独自の立場から論じられており、最近の研究動向を知るうえでの必読文献と言ってよいでしょう。
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