聖徳太子研究の最前線

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釈迦三尊像銘と天寿国繍帳銘は誰のためか: 北康宏「聖徳太子--基本資料の再検討から」(2)

2011年02月20日 | 論文・研究書紹介
 前回の続きです。まず、釈迦三尊像銘について、北氏は、聖徳太子のための願文ではなく、「王后」と呼ばれている「膳菩岐岐美郎女による自分自身のための造像発願を語るもの」だとします。

 銘文では、太子が倒れた時でなく、王后が病むに至って発願がなされていること、また、亡くなった日付が明示されているのは膳妃だけであることなどを重視するのです。そこで、北氏は、釈迦三尊像は膳妃の発願を受け、その王子や諸臣によって造像されたのであって、膳氏の氏寺に置かれていたものが、法隆寺の再建時に金堂に迎えられたと推測します。

 次に天寿国繍帳については、最大の難問である暦の表記は「誤り」とみなします。推古朝当時の通行暦とされている元嘉暦では「二十一日甲戌」とあるべきところが、「二十一日癸酉」となっているのは、後に持統・文武朝時代に用いられるようになった儀鳳暦によっているためであるため後代の作だ、とする主張は認めません。

 『日本書紀』は、推古朝を含む比較的新しい時代の編年には元嘉暦を用い、創作記事が多い仁徳天皇以前の古い時代の干支は『日本書紀』編纂当時の現行歴である儀鳳暦を用いているものの、その儀鳳暦も複雑な定朔法を用いずに平朔法によっている以上、天寿国繍帳だけがわざわざ儀鳳暦の定朔法を用いるのは不自然だというのがその理由です。「干支の誤りはそのまま誤りとして文字通り受け取るべきだろう」と氏は主張しています。
 
 天寿国繍帳の内容に関しては、太子中心でなく橘妃中心となっているのは、まさに橘妃が自分を娶った太子のことと自分の出自の高貴さをアピールしているためだとします。天寿国繍帳は殯宮で用いられた帷帳であり、大化の薄葬令が禁じているような華美な帷帳そのものだとするのです。ただ、天寿国繍帳のように製作に時間がかかるものだと、殯の期間がかなり長くないと駄目ということになりますね。

 繍帳では、太子と母王が「期するが如く従遊す」と述べていますが、「期する如く」というなら、太子とともに病床について太子と一日違いで亡くなった膳妃こそがふさわしいにもかかわらず、天寿国繍帳はその膳妃については一言も触れていません。母王の沒日を、膳妃の沒日である「二月二十一日癸酉」と酷似している「辛巳十二月二十一日癸酉」とし、太子と母王が「期するが如く従遊」したと述べ、橘大女郎が祖母である推古天皇に懇願して繍帳を作ってもらったことを明記しているのは、中小氏族の娘にすぎない膳妃への強烈な対抗意識によるものだとします。

 こうした検討により、北氏は、釈迦三尊光背銘と天寿国繍帳銘は推古朝の成立であって、妃たちに重点を置いて書かれており、そこには「神格化される以前の太子の姿が現れている」と論じます。釈迦三尊像銘では、太子については「法皇」と称しているのだから、「尺寸王身」は太子と等身という意味ではなく、法王たる釈迦と等身、すなわち丈六の大きさの仏像と考える方が妥当ではないか、とする説も示しています。

 釈迦三尊像銘と天寿国繍帳銘は太子だけを尊崇して書いたものではない、というのはもっともな指摘であり、程度は違うにせよ、私も同じ立場です。

 ただ、「神格化以前の太子の姿」という点については、どうでしょうか。釈迦三尊像銘でも天寿国繍帳銘でも、太子については経典が釈迦や他の仏に関して用いている表現を使っており、太子を釈尊やその前世の菩薩時代のあり方と重ね合わせる形で描いていることは、昨秋、このブログで書いた通りです(こちらこちらです。そこに書いた以外にもそうした箇所があります)。どちらの銘も、天上の亡き母に説法するために釈尊が天に趣いて姿を消してしまったことを歎き、釈尊を思慕する優填王が釈尊そっくりの像を造らせたとする説話を考慮して書かれている以上、「尺寸王身」はこの場合はやはり太子と等身と見るべきでしょう。