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小野妹子はどこに住んでいたか: 吉野秋二「小野妹子--推古朝の外交と対氏族政策」

2011年02月15日 | 論文・研究書紹介
 推古朝の外交については、不明なことことばかりですが、分かる部分から解明していこうという姿勢で、まず小野妹子の母体である小野氏について考察したのが、

吉野秋二「小野妹子--推古朝の外交と対氏族政策」
(石上英一・鎌田元一・栄原永遠男監修『古代の人物① 日出づる国の誕生』
清文堂出版、2009年)

です。

 『新撰姓氏録』では、小野氏は大春日朝臣と同祖であって、天武十三年に同族氏族と共に朝臣姓を与えられたとされています。その春日臣は、岸俊男の研究によれば、ワニ氏本宗が欽明朝から春日氏と称し始め、そこから大宅・粟田・小野などの氏が分岐したのであって、春日氏および分れた氏族は、奈良盆地東北部を拠点として山背・近江・東国・北陸に勢力を伸ばしていったとされています。

 しかし、吉野氏は、『新撰姓氏録』が小野氏の名は近江国滋賀郡小野村に妹子が居住したことによると述べていること、また『続日本後紀』によれば、小野氏が近江国滋賀郡にある小野神社の春秋の祭祀に参加する際は、畿外への出国でありながら官符発給を待たない、とされていたことに注目します。さらに、妹子の息子である毛人の墓誌銘が江戸時代に山城国愛宕郡小野郡あたりから発見されており、近辺には小野神社、小野氷室、小野瓦屋などが存在していたことから、この地に小野氏が広く居住していたことは確実とします。

 つまり、早くから大和を本拠としていてその氏神も畿内に属していた他の有力氏族とそうでない小野氏は異なっていた、とするのです。近江に展開した小野氏が栄えるようになると、その小野野氏が関連氏族の本宗とみなされるようになったのだ、というのが吉田氏の推測です。

 吉野氏は、六世紀以後、「諸豪族が朝鮮半島に有する外交ルートに依存せざるを得なかった」大王家は、推古朝になって種々の改革を行ない、妹子を冠位十二階の「大礼」として遣隋使に任じ、後に最高の「大徳」としたことが示すように、畿内や周辺の「中小豪族層の直接的編成を志向したと思われる」と説きます。小野妹子を抜擢し、また小野氏が九世紀中頃まで外交使節を輩出し続けているのは、そうした表れだとするのです。

 その小野氏では、始祖扱いされている遣隋使の小野妹子と、遣唐副使に任じられながら結局は渡航を拒否して配流された小野篁が最も有名であるのは、なかなか面白いですね。
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