聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

薬師如来像銘は舒明天皇の宣命に基づくか: 北康宏「聖徳太子--基本資料の再検討から」(1)

2011年02月18日 | 論文・研究書紹介
 前回紹介した小野妹子論文が載る、

石上英一・鎌田元一・栄原永遠男監修『古代の人物(1) 日出づる国の誕生
(清文堂出版、2009年、4,725円)

は、ルビが多く付された一般向けの書物でありながら、中身は学術的であって、興味深い項目がいくつもあります。中でも力作なのが、近年、聖徳太子関連の論文を次々発表している北康宏氏の聖徳太子論、

北康宏「聖徳太子--基本資料の再検討から」

です。基礎資料そのものをじっくり読み直すことからやり直すべきだとする氏の姿勢には私も賛同しています。

 この論文は、釈迦三尊像光背銘、天寿国繍帳銘、薬師如来像光背銘、『日本書紀』の太子関連記事、聖徳太子の事跡(法王としての政治)、を扱っており、どれも独自の主張がなされていますが、最も刺激的な説は法隆寺金堂の薬師如来像光背銘に関するものですので、まずそれから紹介しましょう。

 北氏は、この銘の内容が史実でなく、また推古朝の作でないことを認めるものの、天武朝の造作とする説には疑問を呈します。「天皇号や薬師信仰が見られるのは天武朝からであるため、そうした語を用いている薬師如来像銘は天武朝期の偽作」とする説が有力ですが、氏は、そうした議論は残存資料が少ない場合は循環論法になってしまう、と述べます。薬師如来像銘が唯一の残存例である場合もありうるからです。しかも、この銘文自体は、自分は推古朝に書かれたとは述べていないことに氏は注意をうながします。

 氏は、むしろこの銘文が「宣命体の特徴を濃厚に有する和文体」であることに注目すべきだとします。つまり、「大王天皇」は、「ダイオウテンノウ」ではなく、「オオキミノスメラミコト」なのであって、推古天皇をそのように呼びうるのは、推古を継いだ舒明天皇が口頭で語る場合に絞られるとするのです。氏は、この銘文は、法隆寺の創建に関して権威ある根拠を示さねばならない以上、法隆寺僧たちのまったくの偽造であればその役割を果たせないため、天皇の宣命の言葉を利用して刻みこんだものと説きます。
 
 「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」では、不自然なまでに聖徳太子・推古天皇との関係が強調されているのは、おそらくは大安寺の前身である百済大寺の縁起、つまりはその造営の詔を継いでいるのであって、舒明天皇は山背大兄を押さえて即位した関係上、天皇発願による初めての大寺建立の詔を発するに当たっては、仏教流布における聖徳太子と推古天皇の功績に配慮しておく必要があったのだろう、というのが氏の推測です。

 なお、薬師如来像自体については、奈良時代には金堂の中尊とされるほど重視されていたこと、白鳳様式の作品と比較すればやはりまだ硬質であることなどから、相応の由来を有するものであったろうとし、斑鳩宮ないし若草伽藍の小堂などに安置されていたのだろうと氏は推測します。釈迦三尊像より技術的に優れているのは、ずっと後の時代になって造像されたためではなく、膳氏が造営した釈迦三尊像と違い、上宮王家自身によって造像されたためだとするのです。

 さて、どうでしょうか。推測による部分が多いため、すべてを無条件で承認することはできないものの、薬師像銘は宣命体を思わせるものがあるという指摘は重要ですね。確かに、和風漢文で書かれた他の仏像たちの銘とは違いますので、この点は考慮する必要があります。

 なお、天平時代頃は薬師如来像が金堂の中尊だったことを示す早い資料はありません。この説は、『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』(天平19年)の仏像の項では、冒頭が薬師像、次が釈迦三尊像銘となっているのは薬師像が中尊であったことを示す、と滝精一が大正時代に主張して以来、広まったようです。しかし、滝の主張には小野玄妙がすぐに反論し、この順序は願主の身分の高下によったのみだと論じたことが示すように、薬師像中尊説は確定したものとは言い難いように思われます。