聖徳太子研究の最前線

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津田左右吉説の歪曲(2)

2010年07月27日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判

 大山氏が複数の著作で津田左右吉『日本古典の研究 下』の「憲法十七条」偽作説を紹介しておりながら、同書のうち、「多くの詔勅が書紀の編者によつて作られてゐることから類推すると、これもまた同様に見られないでもないやうであるが、あまりに特殊のものであることを思ふと、上記の如く解するのが妥当であらう」(128-129頁)とある部分、つまり、「憲法十七条」が『日本書紀』編者の作であることを否定した重要な箇所に触れないことは、前稿で指摘した通りです。

 その理由は分かりませんが、大山氏の著作では、津田説の出典の示し方に気になる点があるため、指摘しておきます。

 まず、太子虚構説が初めてまとまって示された、大山誠一「「聖徳太子」研究の再検討(上)」(『弘前大学国史研究』100号、1996年3月)では、「天皇」の語が道教由来であるとする津田説について、「津田左右吉氏の研究により(12)」(10頁)と記され、末尾の注記では、次のように出典が示されています。

(11) 東野治之「天皇号の成立年代について」(『続日本紀研究』一四四・一四五合併号、一九六九年。のち『正倉院文書と木簡の研究』に収録)。
(12)  津田左右吉「天皇考」。
(13) 上田正昭「和風諡號と神代史」(『赤松俊秀教授退官記念 国史論集』、一九七二年。のち『古代の道教と朝鮮文化』に収録)。福永光司「天皇と紫宮と真人」(『思想』一九七七年七月号、のち『道教思想史研究』に収録)。両氏の天皇関係論文は他にも多いが、ここでは代表的なもののみをあげた。

 一見して明らかなように、前後の注記は詳しいのに、(12)の津田の「天皇考」については、掲載された雑誌や書籍の名も刊行年も記されていません。おそらく、(13)で記されている論考から孫引きし、出典を入れ忘れたのでしょう。

 大山氏のこの論文を少し改めて収録した、大山『長屋王家木簡と金石文』(吉川弘文館、1998年)になると、この部分の注は、

(11) 東野治之「天皇号の成立年代について」(『続日本紀研究』一四四・一四五合併号、一九六九年。のち『正倉院文書と木簡の研究』[塙書房、一九七七年]に収録)。
(12) 津田左右吉「天皇考」(『津田左右吉全集』第三巻)。

となっています。東野氏の本については、出版社名と刊行年が加えられ、さらに詳しくなっているのに対し、津田の論文は全集の巻数が示されているだけです。同書の注では、和辻哲郎についても、

(59) 和辻哲郎「聖徳太子の憲法における人倫的理想」(『日本倫理思想史』上、『和辻哲郎全集』第十二巻)。

となっているため、全集の場合は出版社も刊行年も入れないのでしょう。ただ、和辻の場合は、初出の『日本倫理思想史』上が示されているのに対し、津田「天皇考」については、ここでも初出が示されていません。しかし、全集を見れば、初出は示されています。

 肝心の「憲法十七条」に関する津田説の出典についても、分からない点があります。「「聖徳太子」研究の再検討(上)」論文では、この注の前後は、

(221) 藤枝晃「勝鬘経義疏」(『原典日本仏教の思想 1』岩波書店、一九九一年)。
(23) 荒木敏男『日本古代の皇太子』(吉川弘文館、一九八五年)。
(24) 津田左右吉「応神天皇から後の記紀の記載」(『日本古典の研究』下)。
(25) 青木和夫氏は、「天平文化論」(『岩波講座 日本通史』第四巻、古代3、一九九四年)で、蘇我大臣家における、渡来系の人々の編纂作業を想定されている。

となっています。ここでも、津田の著作は出版社も刊行年も記されていません。このうち、(221)とあるのは、単純ミスであって、『長屋王家木簡と金石文』では、

(22)  藤枝晃「勝鬘経義疏」(『日本思想大系2 聖徳太子集』岩波書店、一九七五年)。
(23) 荒木敏男『日本古代の皇太子』(吉川弘文館、一九八五年)。
(24) 津田左右吉「応神天皇から後の記紀の記載」(『日本古典の研究』下)。
(25) 青木和夫氏は、「天平文化論」(『岩波講座 日本通史』第四巻、古代3、一九九四年)で、蘇我大臣家における、渡来系の人々の編纂作業を想定されている。

とあるように訂正され、書名や刊行年も1991年に復刊された際のものから、1975年の初出時のタイトル・刊行年に訂正されています。荒木敏夫を「敏男」としている誤記は、そのままですが、これは単純な見落としでしょう。

 しかし、

(24) 津田左右吉「応神天皇から後の記紀の記載」(『日本古典の研究』下)。

もそのままであるのはなぜなのか。単行書の扱いなら、出版社名と刊行年が必要でしょうし((26)の青木氏の場合も出版社は明記されていませんが、『岩波講座……』となっているため、分かるようになっています)、全集版に基づいたのであれば全集の巻数を示すのがこの本の例であるらしいのに、なぜそうなっていないのか。

 大山氏の同論文には、

(32) 久米邦武「聖徳太子実録」一九○五年、(『久米邦武歴史著作集』第一巻所収)。

という妙な例も見えます。『長屋王家木簡と金石文』では、

(32)  久米邦武「聖徳太子実録」(『久米邦武歴史著作集』第一巻、一九○五年)。

と訂正されていますが、久米の『聖徳太子実録』は、丙午出版社から1919年に刊行されたものであり、1905年に初めて刊行された際は、『上宮太子実録』という名でした。前者を収録した『久米邦武歴史著作集』第1巻は、吉川弘文館から1988年に刊行されたものです。吉川弘文館版を実際に見ていれば、こうした表記にはならなかったのではないかと思われます。

 このように、大山氏の出典の記載には不備が目立ち、「天皇考」その他、孫引きですませて原文を見ていないのではないかと疑われる場合もあります。『日本書紀』の編者が「憲法十七条」を作った可能性を否定した津田『日本古典の研究 下』の主張について、大山氏が触れないのは、上記のような傾向と関係があるのでしょうか。

 可能な状況はいくつか考えられます。

1. 全集版で読んだが、『日本書紀』編者の「憲法十七条」作成を否定した箇所は印象に残らなかったためメモせず、初出などについてもメモしていなかった。最初の論文はメモに基づいて書き、以後はそれを踏襲している。

2. 津田の「憲法十七条」偽作説については、他の研究者の論文に基づいて記したが、その論文では、津田が『日本書紀』編者の作成を否定した箇所に触れていなかった。出典の記載はその論文に従った。以後はそれを踏襲している。

3.全集版で読み、論旨を理解したが、触れないことにし、出典も詳しく記さなかった。

4.全集版で読んだが、「多くの詔勅が書紀の編者によつて作られてゐることから類推すると、これもまた同様に見られないでもないやうであるが、あまりに特殊のものであることを思ふと、上記の如く解するのが妥当であらう」という文章を理解できなかった。出典もきちんと記さなかった。
 (a) 「上記の如く」とは、3行前の「律令の制定や国史の編纂などを企てつゝあった時代に政府の何人かが儒臣に命じ、名を太子にかりて、かゝる訓誡を作らしめ、官僚をして帰向するところを知らしめようとしたのであろう」という部分のことだと正しく理解したものの、『養老律令』や『日本書紀』の編纂時期を指すと誤解した。→文脈を無視した解釈になる。
 (b) 「上記の如く」とは、この文章の「多くの詔勅が書紀の編者によつて作られてゐる」という部分を指すものと誤解した。→文脈を無視した解釈になる。

 あるいは別な状況かもしれませんが、いずれにしても、大山氏は、津田の「憲法十七条」偽作説を紹介する際、『日本古典の研究』下に基づくとしておりながら、「太子が聖者として尊崇せられ、またシナの文物を採用して冠位の制などを作り国政の上にも新施設をせられたことが伝へられてゐたため」という部分と、『日本書紀』編者の作成を否定した箇所とに触れず、津田自身が『日本書紀』編者作成説を述べたかのように説いて自説の裏付けとするのみであるうえ、他の研究者の論文や研究書の出典を示すのと同じ形で出典を示すことをしておらず、それも最初期の論文からつい最近の著書に至るまでそうであるのが実状です。

【2010年7月28日 追記】

津田は論文を刊行した後も、訂正を加え続けていたことで有名であり、論考によっては、雑誌掲載時、単行本収録時、全集掲載版で大きく違っている場合もあります。ですから、同じ題名、似た題名の論考であっても、厳密な検討をする場合は、どの版についての議論なのかを示す必要があり、他の著者以上に出典表記に気をつけないといけません。

 なお、最新の『天孫降臨の夢』(日本放送出版協会、2009年)の末尾に付された「参考文献」では、編集者の要望で形式を統一したのか、

津田左右吉『日本古典の研究 下』岩波書店、一九五○年(のち『津田左右吉全集 第二巻』岩波書店、一九八六年の所収)

と記されています。これによれば、「『日本古典の研究』下」ではなく、単行本の『日本古典の研究 下』に基づいていることになりますが、そうであれば、最初の論文や『長屋王家木簡と金石文』では単行本扱いとして、出版社や刊行年を入れるべきでした。

 もう一つ妙なのは、最近刊行された『アリーナ』第5号(2008年3月所載の大山「<聖徳太子>誕生の時代背景」の記述です。ここでは、

 津田は、中国の古典を多く引く憲法十七条が、奈良時代にできた『書紀』や『続日本紀』(以下、『続記』と記す)の文章と似ていると指摘したが、そのことは最近の国語学の研究からも証明されており、その結果、聖徳太子の時代のものではなく、『書紀』編纂の最終段階(完成は七二○年)で編者が創作したものとされた。(151頁)

と述べられていますが、津田の説はどこまでなのか不明であり、出典も示されていません。また、「最近の国語学の研究」というのが具体的に誰のどの論文を指すのかも不明です。「創作したものとされた」とありますが、誰によって「された」んでしょう。津田がそう言ったのか、国語学者の誰かがそう言ったのか、別の分野の研究者によってそう判断されたのか。国語学で言えるのは、「用法から見て、この時期以後だろう」などという程度であって、「『書紀』編纂の最終段階(完成は七二○年)で編者が創作したもの」といった踏み込んだことまでは言えないはずですし、そのような指摘をした国語学者の論文は見たことがありません。

【2010年8月22日 追記】

大山誠一編『聖徳太子の真実』(平凡社、2003年)所載の吉田一彦「近代歴史学と聖徳太子研究」では、津田の「憲法十七条」偽作説を紹介する際、「憲法十七条は太子の作ではなく、律令の制定や国史の編纂をおこなっていた時代(七世紀末から八世紀初め)に作成されたものであろうとしたのである」(28頁)と述べています。つまり、大山氏は、研究仲間である吉田さんのこの研究史概説を読んだ後になっても、津田は『日本書紀』編纂に携わった奈良時代初期の為政者らが作成したと述べているのだ、と主張し続けているのです。


【追記:2011年7月23日】  上に記したように、大山『天孫降臨の夢』の参考文献欄によれば、大山氏が用いたのは単行本の津田左右吉『日本古典の研究 下』岩波書店(1950年)だそうですが、津田はその版であれば136頁のところで、「憲法は多分天武朝ころの製作であらうが」と明言しています。他の箇所では、天武・持統朝と受け取れるような書き方もしていますが、いずれにしても、『日本書紀』の完成近くになって編者が創作したものとされたなどとは、津田はまったく述べていません。  もう一つ気になるのは、「最近の国語学の研究」とは、森博達さんの『日本書紀の謎を解く』のことを名を示さずにあげたものではないか、ということです。森さんが大山説を妄想だとして強く批判したため、大山氏は以後は森説には触れなくなりましたが、それ以前の『東アジアの古代文化』104号の大山論文では、漢語・漢文の誤用・奇用から見た森さんの憲法偽作説を紹介して、「研究の緻密さに感嘆した」と述べていました。国語学では、瀬間正之さんが推古朝遺文を後代のものとしていますが、瀬間さんは「憲法十七条」については触れていません。