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仏教と道教の定義: 小林正美「東晋・南朝における「仏教」・「道教」の称呼の成立と貴族社会」

2010年07月11日 | 論文・研究書紹介
 前回の記事では、公伝時における仏教の受け止め方に関する論考を紹介しましたが、関連する最新の論文として、以下のものがあります。

小林正美「東晋・南朝における「仏教」・「道教」の称呼の成立と貴族社会」
(財団法人東方学会・中国社会科学院歴史研究所編『第2回日中学者中国古代史論壇論文集 魏晋南北朝期における貴族性の形成と三教・文学--歴史学・思想史・文学の連携による--』、2010年5月)

 すなわち、道教研究を中心として南北朝から隋あたりの儒仏道三教について独自の立場から精力的な研究を進めている小林先生の論文です。入手しやすいものではありませんが、いずれ国会図書館その他のコピー・サービスで利用できるようになるでしょう。
 
 同論文では、インドから伝わったものを Buddhismと呼ぶことにしたうえで、初期には北朝ではBuddhismについて「仏道」とか「仏法」といった言葉を用いており、空を飛び、奇跡を起こす「神」としての「仏」の「道術」「道法」としてとらえていたとします。この時期のBuddhismは、「仏」や沙門の呪力という面が注目され、信奉されていたことになります。

 これに対して、東晋になると、「周孔の教」に対比する形で「仏教」の語が使われるようになり、「仏」の「教え」というとらえ方、つまり、知識人的な受け止め方がなされるようなったとされます。聖人としての「仏」の「教法」としての「仏教」です。このため、古代の聖人の教えに基づく儒教の五経のように、聖人である仏の教えを記した教典が重視されるようになり、そうした仏典を読んで理解できる者こそが「仏教」の信奉者ということになります。この頃、登場した言葉である「釈教」も同じであって、聖人である釈尊の教えということです。

 このような変化は、道教についても生じており、かつては「五斗米道」や「黄老道」などと呼ばれていたものが、南朝も宋代頃になると、「仏の教え」に対比される形で「道教(道の教え)」と呼ばれるようになったとします。つまり、その当時、道教の教主とされていた「老子」の別名である「道」の教えとして、「道教」という言葉が登場したとするのです。「老釈二教」といった言葉が見えるようになったのも、この当時の特徴です。

 そして、小林先生が重視する宋代の改革派の天師道にあっては、知識人信者たちが仏教にならって自分たちの教えを「道教」と呼ぶことが広まったとされ、儒教・仏教・道教を「三教」と呼ぶのは、宋に続く「梁代に始まるようである」とされます。北朝では、北周の武帝の時にこの影響で「三教」の語が用いられるようになったものの、北朝ではまだ呪力の面が強い「仏法」としての理解が続いていた、というのが同論文の説です。

 実際には、同論文では資料をあげて詳しく論証していますので、関心のある方はどうぞ。中国におけるこうした受容のあり方は、日本の仏教受容を考えるうえでも重要です。日本は、儒教の定着の弱さや呪力への期待という面では、北方遊牧民族が為政者となった北朝諸国家に近い面がある一方、南朝の貴族仏教を手本とした百済の仏教を受け入れてましたので、南北双方の要素が変形された形で見られるように思います。

【追記:2011年9月13日】
同論文は、2011年9月に刊行・市販されました。中国社会科学院歴史研究所・財団法人東方研究会編『第二回日中学者中国古代史論壇論文集 魏晋南北朝における貴族制の形成と三教・文学』(汲古書院)です。
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