聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

津田左右吉説の歪曲

2010年07月26日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判
[以下の議論については、2010年7月22日の夜に公開し、翌23日に訂正版を新たに公開したのですが、以後も、末尾に【7月24日 追記】【7月25日 追記】などと補足することが重なったため、今回は、それらの追記を本文に組み入れ、新たな内容も加えて全面的に書き直した版を公開するものです]

 大山氏は、最新の『天孫降臨の夢』(NHKブックス、日本放送出版協会、2009年)では、「憲法十七条」に関する津田左右吉の偽作説を紹介し、そのしめくくりとして、次のように述べています。

 つまりは、『日本書紀』編纂に携わった奈良時代初期の為政者らによって作られたというものであるが、この津田の理解は、今日では通説となっている。(24頁)

 しかし、津田はそんなことは言っていません。言っていない以上、そうした「津田の理解」が今日の通説となっているなどということは、あり得ません。なぜ、こうしたデタラメなことが言われるのか。

 大山氏は、「聖徳太子架空人物説」を広く世に問う出発点となった大山『長屋王家木簡と金石文』第三部第一章「<聖徳太子>研究の再検討」(吉川弘文館、1998年。初出は『弘前大学国史研究』100号・101号、1996年3月・10月)においても、似たような議論をしていました。氏は、「憲法十七条」について述べるに当たり、津田左右吉の『日本古典の研究』下巻に基づき、津田の偽作説の概要を三点に分けて説明しています。その第一は、第十二条に「国司国造」とあるものの、「国司」の語は大化以前ではありえないためであり、第二は、憲法は君・臣・民という中央集権的な三階級で説かれており、氏族社会であった推古朝にはふさわしくないためです。そして、その第三について、大山氏は次のように述べています。

 第三に、中国の古典から多くの語を引用しているが、これらは奈良時代の『続日本紀』(以下、『続記』と記す)や『書紀』の文章と似ている。したがって、「律令の制定や国史の編纂などを企てつゝあった時代に政府の何人かが儒臣に命じ、名を太子にかりて、かゝる訓誡を作らしめ、官僚をして帰向するところを知らしめようとしたのであろう」というものである。私は、この津田氏の指摘はまったく妥当と思う。国司の語は大宝令以後と思われるが、それは編者の文飾としても、推古朝段階で国造と並んで百姓を統治する地方官はあり得ず、そのような地方官を前提とした訓戒は考えられない。結論として、津田説の通り、憲法十七条は、国史すなわち『書紀』の編者自身によって作られたものといってよいであろう。(218頁)

 以上です。津田の『日本古典の研究』下巻は、戦前の諸著作を編集し直したものであって、この箇所の初出は、発禁になった『日本上代史研究』(岩波書店、1930年)の第一篇です。思想制限が厳しかった戦前と違い、自由に発言できる戦後に刊行された『日本古典の研究』でも、「律令の制定、國史の編纂」を「律令の制定や國史の編纂」、「又た」を「また」、「かゞ」を「かが」、「支那」を「シナ」に改めるといった訂正をしてあるにすぎず、『日本上代史研究』とほぼ同文であって、主張が変わっていないことに驚かされます。

 裁判以後、また戦後における思想的な変化が無かったわけではないことは、家永三郎『津田左右吉の思想的研究』(岩波書店、1972年)が指摘している通りですが、それはともかく、『日本古典の研究』を引用するのであれば、もう少し前のところから引いてほしかったところです。「国司」という語は大化の改新以後でないとあり得ないと指摘した津田は、「憲法十七条」の「国司国造」という不自然な表現は、天武紀十二年の詔勅と持統紀元年十月条にも見えることを指摘し、「當時さういふいひ方が慣例となつてゐたらしく見える」としたうえで、以下のように述べていました(新漢字に直します)。

 然らば、この憲法の製作の時期と作者とは、どう考へられるかといふに、其の文字にシナの古典の成語が多く用ゐられてゐて、其の点に於いて続紀に見える詔勅や書紀の文章と類似してゐることを思ふと、かういふことが文筆を掌るものの間に一般の風習となつてゐた時代であることが推測せられ、また内容から考へて、其の作者は儒家の系統に属するものであつたらうと思はれる。……聖徳太子の作とはせられてゐるが、仏家から出たものではあるまい。思ふに、太子が聖者として尊崇せられ、またシナの文物を採用して冠位の制などを作り国政の上にも新施設をせられたことが伝へられてゐたため、律令の制定や国史の編纂などを企てつゝあつた時代の政府の何人かゞ儒臣に命じ、名を太子にかりてかゝる訓誡を作らしめ、官僚をして帰向するところを知らしめようとしたのであらう。(187-188頁)

 すなわち、法隆寺金堂釈迦三尊銘などを信頼できる資料と見ていた津田は、聖徳太子が活躍し、尊崇されていたこと、少なくともそうした伝承が『日本書紀』編纂以前からあったことを史実として認めたうえで、「憲法十七条」については、用語や内容などの面から後代の作と推定していたのです。しかし、大山氏は、「太子が聖者として尊崇せられ……国政の上にも新施設をせられたことなどが伝へられていた」などの部分を省いて引用しています。

 ただ、大山氏の上記の箇所は、「憲法十七条」の偽作説を述べるのが主であって、津田の聖徳太子観そのものを論じたものでないため、ここでのテーマと直接関わらない点を省いたことは、許されるでしょう。問題は、「津田説の通り」と述べたうえで、「憲法十七条は、国史すなわち『書紀』の編者自身によって作られたものといってよいであろう」としている点です。これは、津田の主張とは全く異なります。

 「国司国造」という問題の表現は天武紀十二年の詔勅と持統紀元年条にも見えており、当時の慣用表現であるらしいと津田が述べていたこと、また「律令の制定や国史の編纂などを企てつゝあつた時代」という言葉から見て、津田は、『古事記』や『日本書紀』の前身となる「帝紀」の撰録や律令の作成などを命じた天武朝、遅くても持統朝あたりまでの作と考えていたと見るのが自然でしょう。

 そもそも、不明な点の多い持統三年の『飛鳥浄御原令』はともかく、『大宝律令』にしても文武四年(701)に完成して翌年施行されています。大山氏は、「国史すなわち『書紀』」と述べているため、津田の言葉を、『養老律令』や『日本書紀』を編纂しつつあった時期、と解釈するのでしょうが、『養老律令』は、唐の律令を模倣した既存の律令を日本の実状に合うよう改修する試みです。また、遅れていた『古事記』も、712年には完成して天皇に献上されています。

 津田は、「律令の制定や国史の編纂」と言っているのであって、「律令の改修や新たな国史の編纂」などとは言ってません。また、「企てつゝあった」という表現からは、「これまで無かったものを作り上げようとしていた」という響きが感じられます。津田の言葉は、やはり、最初の律令や最初の国史の編纂が計画されていた頃、あるいはそれらの編纂を始めたばかりの時期、を意味すると見るのが自然でしょう。

 実際、津田は、上の文章のすぐ後で、「多くの詔勅が書紀の編者によつて作られてゐることから類推すると、これもまた同様に見られないでもないやうであるが、あまりに特殊のものであることを思ふと、上記の如く解するのが妥当であらう」(128-129頁)と述べています。つまり、『日本書紀』に見える天皇の詔勅の多くは『日本書紀』の編者が作ったものであり、「憲法十七条」もそうした例のように見えないこともないが、「憲法十七条」はあまりにも特殊なものであるため、上に述べたように、「律令の制定や国史の編纂などを企てつゝあつた時代の政府の何人かゞ儒臣に命じ」て作らせたと考えるのが妥当だろう、というのです。

 『日本書紀』の編者の作ではないだろうというのが、津田の判断ですので、「企てつゝあつた時代」は『日本書紀』の編纂作業以前ということになります。それにもかかわらず、大山氏は、「津田説の通り、憲法十七条は、『書紀』編者自身によって作られたものといってよいであろう」と主張するのです。しかも、大山氏は、どの著作でも、この「多くの詔勅が……」の部分について触れることがありません。

 これは、許される省略の範囲を超えています。聖徳太子は、権力者の不比等と長屋王、そして僧侶の道慈が創造した架空の人物だとする自説、そして、「憲法十七条」は儒教主義の不比等と儒教にも通じていた道慈が作ったという自説の後ろ盾とするため、津田左右吉という権威を利用しようとした歪曲というほかありません。あるいは、逆に、「儒臣」が作ったと考えられると津田が述べていたため、老荘思想にも関心があった不比等のことを儒教主義であったと説くようになったのかもしれません。
 
 もし、意図的な歪曲ではないというのであれば、大山氏は「自説に不利な資料を目にしても、自説を支持する内容が示されているように読んでしまう傾向がある人物」ということになります。いずれにせよ、大山氏の聖徳太子架空人物説は、その成立当初から基本文献の誤った解釈に基づいていたのです。津田の『日本古典の研究』のような最重要の文献、それも現代日本語で書かれた文献についてすらこうである以上、漢文や古文で書かれた様々な資料に関してはさらに危ないであろうことは、容易に想像できるでしょう。

 ここで、大山氏の他の著作では、この問題についてどう述べているか、見てみましょう。まず、『長屋王家木簡と金石文』の聖徳太子論議を一般読者向けにした『<聖徳太子>の誕生』(吉川弘文館、1999年)では、「ここは、むしろ、『日本書紀』の編者自身の手になった文章と考えるのが妥当なのではないか、津田氏はそう主張されたのである」(75頁)となっています。津田説をねじ曲げ、『日本書紀』の編者自身が書いたとしているものの、「と考えるのが妥当なのではないか、津田氏はそう主張された」とあって、津田は推測の形で述べたとしています。

 ところが、『聖徳太子と日本人』(角川ソフィア文庫、2005年。2001年に風媒社から刊行された『聖徳太子と日本人』に一部加筆)では、「津田左右吉が……憲法の文章は奈良時代にできた『日本書紀』や『続日本紀』の文章と似ているから、『日本書紀』の編者が聖徳太子の名を借りて、官僚たちに訓戒を与えたものであると結論した」(20頁)と述べており、「結論した」という強調した言い方になっています。

 そして、最初に紹介した最新の『天孫降臨の夢』では、「つまりは、『日本書紀』編纂に携わった奈良時代初期の為政者らによって作られたというものであるが、この津田の理解は、今日では通説となっている」(24頁)と断言されていました。「奈良時代初期の為政者らによって作られた」というのが津田の文章の意味だとするに至ったわけです。しかも、そのような津田の主張は、「今日では通説となっている」と明言されています。「憲法十七条」を後代の作と見る津田説を支持して太子作を疑う研究者が多い、といった書き方ならあり得るでしょうが、奈良時代初期の為政者が自ら作ったと津田が考えていたとするような見方が主流になっているとは言えません。

 大山氏は津田説を評価し、その方向を受け継いで批判的な研究を進めているようでありながら、実際にはそうではないことは、この件が示す通りです。私は聖徳太子関連の津田説については反対の場合が多いものの、津田が創設した研究室で大学院時代を過ごした者としては、津田説を自説に都合良いように歪曲して利用するようなやり方を放置しておくことはできません。津田説に対する学問的な批判なら評価しますが、津田説に賛成だと明言していたとしても、歪曲しているのであれば、そうした議論は学問とは呼べないからです。

 意図的であれ無意識であれ、自分たちの立場にとって都合良く歪めたものを津田説だとして宣伝している点では、程度は違うものの、津田説は凶悪無比の大逆思想だ、マルクス主義の唯物史観だなどと大げさに言い立てて攻撃した蓑田胸喜たちと同類であるように見えます(実際には、津田は天皇家に対する敬愛の情が強かったうえ、唯物史観には反対でした)。

 ほかにも、大山氏の聖徳太子架空人物説が、戦前における国家主義の聖徳太子礼讃者たちの主張と似ている点があります。

 たとえば、津田は「憲法十七条」は中国の文献を模倣しただけで各条の具体的な実施を考えていない「抽象的」で「空疎」な文章と見ていたのに対し、小野清一郎によれば、中国思想と仏教に通じていた天才的な哲人政治家である聖徳太子が「日本精神」に基づき、ローマ法などより高次で日本的な内容の「憲法十七条」を格調高い文章で作り上げたことになり、大山説では、日本独自の天皇制を作り出した陰謀の天才、藤原不比等と、中国思想・仏教・唐代の皇帝のあり方に通じていて「優れた文章力を持っていた」道慈が、未開な時代の凡庸な厩戸王を聖徳太子という聖人にでっちあげ、その聖人の作と称する「憲法十七条」を捏造して日本風な王権の根拠を示そうとしたとされるのです。

 小野と大山氏とでは、飛鳥時代の日本の文化度や聖徳太子に対する評価は正反対であるものの、発想そのものが似ていることは明らかでしょう。大山氏の聖徳太子否定説は、国家主義者たちの聖徳太子礼讃を裏返したような性格を持っているのです。「憲法十七条」は日本精神に基づくとする小野と、天孫降臨神話を作った不比等が捏造させたとする大山氏は、それなら「憲法十七条」が神話によって天皇を権威づけていないのはなぜか、という理由をうまく説明できないでいる点も、共通している面の一つです。

 なお、発禁になった『日本上代史研究』について言えば、私が持っている初版は、「所蔵印あり。傍線少々あり」という古本をネット上で格安で購入したものですが、届いた本を見た時は、内表紙に「教学局図書」という5センチ四方の大きな朱印が押してあったので驚きました。その左下に押された青スタンプ内は、2行目に数字が赤印で、4行目に数字が黒ペンの手書きで入れられ、

「教学局図書
和 2692
 思想課
共 1 冊」

となっています。しかも、本文のうち「憲法十七条」に関する箇所は、最初の頁が折ってあり、偽作説関連の所には薄い赤線が引かれていました。この赤線は、教学局(文部省の外局。後に省内の内局に編成換え)が戦後に解体された際に流出したものを誰かが入手し、赤線を引いたのかもしれませんが、国家主義的な思想指導の中心となり、強大な力をふるった教学局の思想課の所員が、内容をチェックしながら読んだことは確かです。教学局が購入したのは、小野清一郎や蓑田胸喜たちが津田を攻撃する前なのか後なのか、気になるところです。「和」は「和書」ということでしょうが、その番号が 2692 とあるところから見ると、あまり早い時期の購入ではなさそうですが。

 文部省が昭和十年頃から盛んに出すようになった国家主義路線の聖徳太子関連の小冊子については、別に書きます。