聖徳太子研究の最前線

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垂迹としての聖徳太子:吉田一彦氏の最新論文

2010年07月03日 | 論文・研究書紹介

 学部の論集用に、「三経義疏の共通表現と変則語法(上)」という原稿を提出しました。変則語法については、今回は『勝鬘経義疏』中の主なものだけを扱いましたが、中国人ならあり得ない表現の連続です。あまりにも奇妙な箇所だけ中国人の研究者に見てもらったところ、「これは漢文とは言えないです」とのことでした。そうした用例は複数ある場合も多いため、すべて誤写ということで説明することはできません。

 さて、その『勝鬘経義疏』と関わる論考を送っていただいたので、紹介します。大山氏と並んで聖徳太子非実在説を推し進めてきた吉田一彦さんの「垂迹としての聖徳太子--早島有毅「聖徳太子信仰と三国仏教史観」によせて--」(『同朋大学仏教文化研究所紀要』29号、2010年3月)です。題名が示すように、早島有毅氏の最近の研究に対するコメントという形で、真宗の聖徳太子観について述べたものです。

 真宗の寺院では、聖徳太子の画と、インド・中国・日本の高僧たち七人を描いた画を本堂にかかげるのが一般的ですが、インド・中国・日本という三国の枠組みは、朝鮮を外し、また中国を相対化して自国の意義を強く意識する平安期およびそれ以後のナショナリズム的な意識と強く結びついていることが、前田雅之さんなどによって明らかにされています。したがって、聖徳太子信仰がそうした三国意識と結びつくのはいつ頃からか、が問題になります。しかも、そのような枠組みの中で描かれる太子は、垂髪の姿で描かれており、吉田さんは、これについては、救世観音として描かれたとする早島氏の主張に賛成します。

 そこで、吉田さんは、太子が救世観音の「垂迹」とされるようになった時期を問題にします。本地垂迹という考え方は、日本独自のもののように思われがちですが、「垂迹」というのは中国仏教の概念であり、日本では最初に「垂迹」の語が用いられ、後に「本地」の語も用いられるようになったことは、吉田さんが先に論文「垂迹思想の受容と展開--本地垂迹思想の成立過程--」(速水侑編『日本社会における仏と神』、吉川弘文館、2006年)で検討されたところです。  

 ただ、「垂迹」という概念について、「教学のレベルでは、日本に八世紀前期には伝えられており、智光など学僧の書物に用いられていた」(21頁)とするのは、どうでしょう。「垂迹」の語は、『法華義疏』の「本義」である梁の光宅寺法雲の『法華義記』などに既に見えていて本迹論議がなされており、『法華義疏』自体は用いていないものの、『勝鬘経義疏』と『維摩経義疏』には見えています。三経義疏の位置づけが問題になりますが、残存文献が少ない新羅でも七世紀には論じられていますし、三論宗文献でもしばしば論究されるため、「日本に八世紀前期」というのは遅すぎるでしょう。

 吉田さんは、藤井由紀子「『救世観音』の成立について」(佐伯有清先生古稀記念会編『日本古代の祭祀と仏教』)によれば、救世観音というのは日本以外には存在せず、太子を救世観音だとした最初の文献は『聖徳太子伝暦』だとして論を進めていますが、唐の道宣の『広弘明集』が収録する梁の簡文帝の「唱導文」中に、「礼救世観音」(大正52巻、205c)とありますし、簡文帝の父である武帝は内外で「救世菩薩」と呼ばれていました。日本に仏教を伝えた百済は、この梁代仏教を模範としていましたので、太子を救世観音とする信仰については、梁の仏教と百済の仏教の影響を考えた方が良いように思います。

 以下の部分では、吉田さんは四天王寺と法隆寺が聖徳太子信仰をリードしようとして競い合い、相互に影響を与え合ったものの、四天王寺がむしろ先行していたことを指摘しています。そして、垂髪の問題については、飛鳥時代の様式とされる菩薩像には垂髪が表現されることは少なく、しばしば蕨手状に造形されていることに注目し、それらの像の頭部から垂れているのは宝冠をとめる冠帯であって髪ではないものの、親鸞系門流ではそれらを混同し、冠帯状の垂髪を描いたのではないかと推測されています。そして、太子を取り巻いて描かれる人物については、思想的な観点から考える必要があるとしてしめくくっていますが、確かに、どの人物がどのように描かれているかは、太子信仰の変化と系統を考えるうえで重要でしょう。 やはり、美術作品を無視しては、思想研究も不十分となりますね。