聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

仏教伝来時の委託祭祀: 三橋正『日本古代神祇制度の形成と展開』

2010年07月09日 | 論文・研究書紹介

 『日本書紀』における聖徳太子の描き方は、仏教公伝以来の仏教関連記事と関係深いだけに、そうした仏教関連記事の真偽や描き方の特徴をどう見るかが問題になります。この点について考えるうえで、きわめて重要な問題提起をしているのが、

三橋正『日本古代神祇制度の形成と展開』(法蔵館、2010年2月)

です。前著の『平安時代の信仰と宗教儀礼』(続群書類従刊行会、2000年)によって、神道宗教学会賞や中村元賞を得た三橋さんは、私が高く評価する研究者の一人ですが、今回の本は、前著と同様、基本資料を精読するなかから、日本人の宗教意識のあり方や、様々な系統の宗教儀礼が使い分けられて並立している状況を浮かびあがらせるに至っており、結論先行型、理論先行型の研究とは異なります。

 三橋さんは、古墳を築造していた王朝と律令を制定した王朝は、祭祀関連の文物から見て大きな断絶がなかった以上、仏教は、古墳時代の信仰形態の中で受け入れられ、その中で変化し、また周辺を変化させていったとします。その一例が、「委託祭祀」です。


 崇神天皇の代には、疫病などをおさえるため、祭らねばならない神々が見いだされ、それぞれの神にふさわしい奉仕者が設定されたことが伝えられています。個々の記述すべてを史実とすることはできないものの、そうしたパターンが見られるのは事実であり、天照大神もその図式の中で描かれていることが注目されます。

 仏教についても、欽明天皇が初めて仏教を受け入れるに際して、まず蘇我稲目に仏像を託して試みに拝ませることにしたとされているのは、まさにそうした委託祭祀と一致するのです。外国の神であったためにそうした特殊な措置をしたわけではありません。

 聖徳太子についても、推古11年に、太子が「自分が持っている尊い仏像を、誰か拝む者はいないか」と大夫に尋ねたところ、秦河勝が進み出て「自分が拝みましょう」と申し出て蜂岡寺を作ったという記述がありますが、これも、しかるべき奉仕者を見いだして祭祀を託す、というパターンだとされます。

 三橋さんは、さらに日本の信仰における「柱」の意義とからめて議論を展開しており、日本古来の風習と思われる宗教意識や神観念が、実際には歴史の中でどのように形成されてきたか、を明らかにしています。つまり、最初は従来の神観念の中で受け入れられた仏教に対する理解が進み、仏教が王権を支えるものとなっていくにつれ、そうした仏教の影響を受けつつ仏教からの独自性を主張する神祇の思想が形成され始め、しかも「習合と隔離(分離)」という図式ではとらえられない仏教と神祇との複雑な影響・相反作用が進んでいったことが示され、天皇そのものの神格化をめざした天武朝が画期的な役割を果たしたことが説かれています。現代にも見られる日本の宗教の重層性について関心を持つ人には、ぜひお勧めの一冊です。

 本書全体の論旨はお伝えできないため、聖徳太子に関わる部分だけ着目させてもらうと、先の太子と河勝の記事は、崇神天皇や欽明天皇と同じパターンで、つまり日本風な委託祭祀の一例として描かれているという点が重要です。入唐した経験を持つ人物が、太子を中国の熱心な仏教信者の帝王になぞらえ、中国の文献を切り貼りしてゼロから書いたのであれば、あのような書き方にはならなかったでしょう。実際、推古11年のその記事には、私が先の論文で指摘したように、倭習がいくつも見られるため、唐に16年も留学した道慈が書いたものとは考えられません。