聖徳太子研究の最前線

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近代における聖徳太子再評価のきっかけ:東野治之「聖徳太子の人物像と千三百年遠忌」

2022年12月30日 | 聖徳太子信仰の歴史

 古代について研究するには、近代における研究史を知る必要があります。というのは、自分では客観的に研究しているつもりでも、実際には近代になって形づくられたイメージを前提にし、それに合う資料を探したり、それに合わせた文献解釈をしたりしがちだからです。

 聖徳太子の場合、現在のイメージが形成されたのは、千三百年遠忌がきっかけですが、その頃の状況を調査した最新の論考が、

東野治之「聖徳太子の人物像と千三百年遠忌」
(『日本学士院紀要』第77巻第一号、2022年11月)

です。まさに刊行されたばかりです(御恵送、有難うございます)。学士院も変わってきており、すぐPDFで読めるようJ-STAGEで公開していました(こちら)。

 東野氏はまず、今日における平均的な聖徳太子のイメージとして、

A 天皇中心の政治を目指した皇太子
B 遣唐使を派遣して、隋との国交を開き、大国中国に対等外交を主張した
C 仏教・儒教をはじめとする中国文化を積極的に摂取し、古代日本の文明化を促した
D 一時に十人の訴えを聞くなど、卓越した能力の持ち主で、仏教経典の講義や注釈を行った

という点をあげ、これは主に『日本書紀』に基づいて形成されたものであり、推古天皇の即位とともに皇太子となり、「万機を録摂し」たという『日本書紀』の記述によれば、推古朝の施策はすべて太子が領導したことになるが、現在の研究では、皇太子の制度や「摂政」の職はまだなかった、多くの事業は太子と馬子に命じて行われた、有力な皇子が天皇に代わって政治をおこなうのは、斉明朝の中大兄皇子(天智天皇)が最初、とされており、太子の事績、その元となった史料が疑われているとします。

 そこで登場したのが大山誠一氏の「いなかった」説ですが、東野氏は、史料を疑うのは良いものの、疑わしさが証明されないまま積み重ねられ、なし崩し的に「事実でない」とするのでは確実な論証とは言えないと批判します。

 そして、太子の実像については、法隆寺金堂釈迦三尊像銘が後代の追刻でないことを含め、『聖徳太子ーほんとうの姿をもとめて』(岩波ジュニア新書、2017年)に譲るとし、『日本書紀』のような太子像が形成された原因を探っていきます。

 その原因については、「極めて優秀な能力を持つ皇子が実在し、将来の即位への含みを残しつつ、天皇の職務の一部を代行したという事実が実在した」ためとします。

 太子関連の資料のうち、比較的信頼度が高い『上宮聖徳法王帝説』では、太子は「王命(ミコノミコト)」と呼ばれているが、資料によって「皇子命」「皇子尊」などと呼ばれるこのミコノミコトの最初は太子であり、それは後の皇太子につながるような特別な位置を意味したと考えられる、と説くのです。

 ただ、太子が関わったのは、十七條憲法の制作、仏教の興隆、仏典の講義・注釈などに限られ、外交に直接関与した形跡は見られないため、「太子の役割は推古天皇や馬子大臣の統治に対するアドヴァイザーに終始したのではなかったか」と見ます。

 外交不関与という点は、私の主張(こちら)や塚口義信氏の最近の論文(こちら)とは異なりますが、役割をそれなりに認める立場と言えるでしょう。

 その太子は、長らく仏教面で尊崇されてきましたが、江戸時代になって儒者から批判されたのは、馬子が崇峻天皇を暗殺したことについて抗議も批判もしていないという点でした。明治時代になって、久米邦武以前に近代的な伝記研究をおこなった薗田宗恵『聖徳太子』(仏教学会、1895年)が、その弁護に努め、太子の感化があったからこそ馬子は推古天皇の意に逆らわないようになったと論じたのは、太子への反感がいかに強かったかを示すものだと、東野氏は説きます。

 その後、久米邦武の『上宮太子実録』(井洌堂、1905年)が登場し、史料批判をおこない、比較的信用できるものと、後代の荒唐無稽な伝説を切り分ける研究方法が確立されてゆきます。

 そうした中で太子顕彰の役割を果たしたのが、大正2年(1913)設立の法隆寺会です。この会が発展したものが「聖徳太子位置千三百年遠忌奉讃会」であり、さらにそれが「聖徳太子奉讃会」となっていきますが、これについては増山太郎氏編著『聖徳太子奉讃会史』という有益な本が出ています(このブログでも紹介してあります。こちら)。

 ただ、奉讃会事業のトップとなるよう頼まれた渋沢栄一が、水戸学を学んだ自分は太子は大嫌いだとして断ったものの、太子の意義を知らされ、事業の協力に転じるドラマティックな記述が見られますが、東野氏は、様ざまな史料を検討し、そのままには受け取れないとします。

 たとえば、明治時代末に水戸藩主とも関係深い水戸市の善重寺が明治の末に太子殿を再建する際、渋沢家の執侍が寄付名簿に記名押印しているため、渋沢が奉讃会やその役員の性格を確かめようとして「一場の芝居を演じてみせたのであろう」と推測します。

 これはどうでしょうかね。地元の名士として、その値の寺の寄付事業の一端をになうのと、奉讃会の会長となるのでは立場がまったく違います。ただ、東野氏は高橋良雄の日記に、内務大臣官邸の晩餐会での講演に政財界の大物たちが参加していたことなど、これまで知られていなかった史料によって募金状況を明らかにしており、有益です。

 さて、渋沢が動いて事業が進み出し、太子は「美術を始め日本文化の各方面を指導して発展させた偉人」というイメージが広まっていきます。奉讃会に参加していた高島米峰、境野哲(黄洋)『聖徳太子伝』、黒板勝美『聖徳太子御伝』などが次々に刊行されていくのです。宣伝活動は全国に及び、NHKによるラジオの全国放送も行われた由。

 この時期の活動について、裕仁皇太子が大正天皇の摂政となったこととイメージが重ねられたという推測について、東野氏はありうることとします。その太子のイメージが広まったのは、高額紙幣への太子の肖像の採用であり、裕仁皇太子の妃の父が奉讃会の会長であった久邇宮邦彦王であったことも偶然はではかったかもしれない、と東野氏は説きます。

 昭和9年から法隆寺の大修理が行われますが、その際は、文部省内に法隆寺国宝保存事業部が設置され、事務次官が部長となるという特別な体制が取られたことに注意します。

 戦後になると、太子のイメージが修正されます。平和国家・文化国家の建設を指導した人物という形となり、戦時中の天皇の詔に従えという部分の強調に代わって、「和を以て貴しとなす」の面が重視されるようになったのです。

 なお、東野氏は日本学士院の会員ですが、法隆寺官庁の佐伯定胤が僧職としてはただ一人、戦前・戦後にかけて帝国学士院・日本学士院の会員であったことも、太子を顕彰し、太子研究を支援した奉讃会と法隆寺の関係を物語るとします(実際には、佐伯定胤は唯識説の権威であり、近代的な仏教学を学んだ学者も定胤の講義を聞いた人が少なくありません)。

 東野氏は、奉讃会風な太子の捉え方を批判的に検討し直すことによって太子像の研究を進め、太子と政治の関係などを明らかにする必要を説いてこの論文をしめくくっています。

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