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中国で偽作された聖徳太子書写と称する『維摩経』: 韓昇「聖徳太子写経真偽考」

2010年11月18日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
【11月17日にアップしましたが、間違いや説明不足の箇所があったため、カテゴリーを変えたうえで、訂正版を掲載します】

 本業である中国仏教関連の仕事に追われ、なかなか更新できずにいるため、ここらで現実逃避のため、気楽な紹介をやっておきます。聖徳太子が書写した経典が、なんと、敦煌文書とされるものの中に存在するというので、その真偽を検証してみた試みです。

韓 昇「聖徳太子写経真偽考」(簡体字による中国語論文)
(藤善真澄編著『東と西の文化交流(関西大学東西学術研究所創立50周年記念国際シンポジウム'01報告書)』(関西大学出版部、2004年3月)

 1995年に上海で刊行された『北京大学図書館蔵敦煌文献』第二冊には、聖徳太子が書写したという鳩摩羅什訳『維摩詰経』巻下の残巻が収録されています。明治13年に清国の駐日公使の随員として来日した書家で蔵書家の学者、楊守敬(1839-1915)が中国では失われてしまった珍しい書物を収集してもち帰ったうちの一つという扱いです。楊守敬は、教育の仕事から離れた晩年には書を売って生活していましたので、コレクションのうちの貴重な古文書が世間に出回っていても不思議はありません。

 その図録の写真によれば、問題の写経は白麻紙に一行17字で書かれたものが127行だけ残っており、末尾は次のようになっています。

  経蔵法興寺
  定居元年歳在辛未上宮厩戸写

 そして、この部分の前には「始興中慧師聡信奉震旦善本観勤深就篤敬三宝」という文が見えていますが、韓氏は、「慧師聡」とは、慧慈とともに三宝の棟梁となったという慧聡を尊敬した表現であるとします。

 凄いですね。法興寺(飛鳥寺)の経蔵に納められていたものであって、慧聡がもたらした震旦(中国)の善本のテキストを、私年号である定居元年(611)に「上宮厩戸」が書写したというのです。しかも、敦煌文書にはお馴染みの「浄土寺蔵経印」も押してあるのですから、太子の書写した経典が中国に渡って西端の敦煌にまで至ったということになります。

 この611年というのは、『補闕記』によれば、太子が『維摩経』の疏を執筆し始めた壬申(612年)と完成した癸酉(613年)のまさに直前にあたります。出来すぎですね。韓氏が来日した際、この文書についてともに検討した日本の学者たちは、いずれもおそらく「近世甚至近代」の時期に日本で作られたものと判定した由。そりゃ、そうでしょう。

 しかし、韓氏は、さらに写経の部分を精査したところ、敦煌文書に含まれる唐代の『維摩経』写経と共通する点が多い一方、「浄土寺蔵経印」などは偽印であることを明らかにします。また、「慧師聡」などの表現は中国語に通じた人間でないと書けないとし、日本での偽作を否定します。

 そこで、結論としては、四川省生まれで日本に留学して早稲田大学で学んだ白堅(1883-?)ないしその類の人が、本物の古写経の末尾に上記のような文を載せた紙を付け加え、写本の市場価値をあげようとしたものと推測しています。

 私も、『北京大学図書館蔵敦煌文献』でこの文書の写真を見てみましたが、末尾の紙の部分は、写経部分に似せているものの、素朴な写経本体とは明らかに書体が違っており、達者な人がわざとごつごつした感じで書いたような印象を受けます。

 なお、白堅については、中国帰国後は官吏として働き、職を離れてからは書画の売買などをしていたらしいこと、また藤枝先生の偽作説で知られる李盛鐸の敦煌文書コレクションの日本への売り込みにあたってはブローカー役を務めたらしいことが、高田時雄「李滂と白堅―李盛鐸舊藏敦煌寫本日本流入の背景―」(『敦煌寫本研究年報』創刊號(2007.03)で報告されています。

 こうしてみると、聖徳太子は『勝鬘経義疏』以外でも敦煌文書と因縁が深いことになりますね。そもそも、私自身、敦煌から出た仏教写本の翻刻作業の合間にこうやって聖徳太子研究ブログの記事を書いているわけですし。

 この太子書写と称する写経については、もっと詳しく研究する必要がありますが、いずれにせよ、上記のようなこともあるので、真作偽作という問題は非常に複雑で厄介です。このことは、推古朝遺文を含む聖徳太子関連の文物についても同様でしょう。
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