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「憲法十七条」は僧旻が孝徳朝に書いたとする古い論文:前田晴人「憲法十七条と孝徳朝新政」

2022年09月26日 | 論文・研究書紹介

 盛んに議論されてきた「憲法十七条」については、現在では、文言の多少の潤色があるかもしれないが、基調は推古朝成立と考えてよい、とする説が主流になっています。ただ、その場合でも『日本書紀』が記すように厩戸皇子の親撰を認めるか、蘇我馬子との協議のうえでの作と見るか、実際には馬子主導と見るかといった点で、意見は分かれます。

 後代の作とする説も完全に消えたわけではありませんが、最近の研究成果によってその主張がなりたなくなっている例をとりあげておきましょう。「聖徳太子はいなかった説」が注目をあびて賛否両論が起きていた頃に刊行された本の冒頭の論文です。

前田晴人『飛鳥時代の政治と王権』「第一部 憲法十七条と飛鳥仏教 第一章 憲法十七条と孝徳朝新政」
(清文堂出版、2005年)

 前田氏は、「はじめに」の最初の部分で、「周知のごとく現在では真撰説が有力化している」と述べたうえで、「憲法十七条」に見える「国司」の語その他に着目して推古朝成立を疑った津田左右吉の問題提起については、今も完全には回答がなされていないとします。2005年の段階の発言ですよ。

 そこで、偽作説の立場で検討を始めるのですが、前田氏は津田左右吉が「憲法十七条」を疑いつつ、『日本書紀』の編者の作とせず、大化期以後天武・持統朝頃までの間に儒臣が作成したとしていることに注目します(大山氏は、津田は『日本書紀』編者作成説であったかのような、自説に都合の良い書き方をしていましたね。こちら)。

 そして、推古天皇は三宝興隆を命じたとされるものの、蘇我稻目に仏教を信仰させた欽明天皇と立場は同じだったのであって、天皇自身が仏教の把握・支援をおこなうのは、蘇我氏でなく天皇が仏教を主管すると宣言した孝徳朝からと見ます。推古自身の仏教信仰が篤ければ、自ら王立寺院を建立したはずとするのです。

 推古は全面的な仏教信仰ではなく、振興を命じる立場だったというのはありうる仮説ですが、孝徳朝以前でも、舒明天皇は、それまでの蘇我氏の寺や蘇我系の厩戸皇子の寺など問題にならないほどの巨大な寺を建てていますね。それから考えると、推古は欽明と舒明の中間くらいの立場だったと見ることも可能そうですが。

 さらに問題なのは、「憲法十七条」は君主絶対の立場に立っており、この主張は蘇我系である厩戸の「政治生命に致命傷」となると説く点です。前田氏は、こうした疑問を提示した後、「憲法十七条」の内容を概観していくのですが、これは、第十四条が「賢聖を得ずは、何を以て国を治めむ」と述べていることを見逃したものですね。

 「賢臣」なら分かりますが、「賢聖」ですよ。私の大昔の論文(こちら)で指摘したように、「憲法十七条」は聖人である臣下がいないと国を治められないと明言しているのです。「承詔必謹」を説いてはいるものの、その詔の方針を決めるのは、補佐する聖臣じゃないんですか? 

 津田の儒臣作成説の影響を受けた前田氏は、この「憲法十七条」の作者は、隋唐に留学し、儒学にも通じていて帰国後には『易経』の講義をしていた僧旻だと推測します。しかし、「憲法十七条」は儒教文献の言葉を盛んに用いるものの、『易経』の影響が強いわけではありませんし、そもそも儒教の基本的立場に従っていません。

 最後の点を明らかにした私の論文は最近のものですが(こちら)、前田氏のこの本が刊行される6年前には、「憲法十七条」は和習だらけだとする森博達『日本書紀の謎を解く』が刊行され、話題になっていました。

 森さんは、唐で長く学んだ道慈が作成したとする大山説批判も書いており、それは前田氏のこの本が出る前のことです。僧旻はその道慈よりさらに長く中国に滞在していたのですが、そうした人が、漢文の基本である「不」と「非」の区別もできていない変格漢文を書くんでしょうか。

 前田氏は、論文末尾で「私は古代法や仏教思想などの問題には全くの門外漢である。それゆえ、思わぬ失策を至るところで犯している恐れがある」ため、ご批判を希望すると述べています。これは謙虚な発言でしたが、この論文は、その後の新しい研究によって否定されるだけでなく、関連分野の最新の研究成果に注意していないため、刊行時には既に成り立たない古い説となってしまった一例です。

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