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基本史料の欠落部分: 東野治之「古代における法隆寺金堂の安置仏像」

2011年03月22日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子や法隆寺について論ずるとなれば、関連資料を正確に読むのが第一であることは言うまでもありませんが、厳密を期すためには、その資料そのものの性格についてきちんと検討して把握しておく必要があります。

 そのような作業の典型が、

東野治之「古代における法隆寺金堂の安置仏像」
(『古代文化』61巻2号、2009年9月)

でしょう。東野氏は、多くの分野にわたる幅広い知識に基づき、金石文を含む諸文献や文物について厳密に検討することで知られています。聖徳太子や法隆寺に関しては、近年では、意見を異にする様々な立場の研究者によって最も多く引用される学者かもしれません。それだけに、どの論文から紹介しようか迷っていましたが、とりあえず、法隆寺金堂関連から。

 多くの仏像が安置されている法隆寺では、いつ安置されたのか、どこから運びこまれたのか分からない像が多数あります。金堂の四天王像や百済観音像もそうした例であって、天平19年(747)の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』や承暦2年(1078)の『金堂日記』などにも見えないことから、金堂への安置は11世紀以降とする説も出されてきました。

 これに対し、東野氏は、『資財帳』冒頭に見える仏像関連の記述においては、仏像の総計記載はなされているものの、菩薩や天部の像については総計は示されていないこと、『資財帳』の他の資材の箇所では「四天王分」とか「観世音菩薩分」などと用途を指定して四天王や観世音菩薩像の存在を示唆する記述が見えることに着目します。そこで、現存の『資財帳』に関する東野氏の結論は、次のようになります。

「25行目と26行目の間に、菩薩ないし天部の像についての総計記載と内訳が脱落していると考えざるをえないであろう」(138頁左)

 承暦2年(1078)の『金堂日記』にも四天王の記載が無いことについては、「金銅仏の目録であった」ためとする福山敏男の旧説を評価し、改めて当時の状況を検討した結果、承暦2年の『金堂日記』は、金銅像の盗難が多かったことを懸念して作成された金銅の仏像の目録であったことを明らかにします。木造の四天王像や菩薩像が記録されていなくても、不思議はないのです。

 百済観音像についても、法隆寺の古代中世の記録に見えないものの、様式は金銅の仏像や灌頂幡と類似しているため、これも『資財帳』の脱落部分に記されていたものと氏は推測します。

 この他、氏は、金堂西の間の宣字座の上に、鎌倉時代制作の阿弥陀像が安置される前は、どのような仏像が置かれていたかについて検討していますが、『資財帳』のような基本文献でさえこうした問題を含んでいるということは、常に心にとどめておかないといけないですね。
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