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明治以後のお札と聖徳太子:植村峻『紙幣肖像の近現代史』

2021年06月12日 | 聖徳太子信仰の歴史
 近代になってからは、聖徳太子は紙幣の肖像として親しまれました。そうした紙幣の肖像について、カラーやモノクロの写真をたくさん載せて紹介しているのが、

植村峻『紙幣肖像の近現代史』
(吉川弘文館、2015年)

です。



 本書は冒頭で、紙幣には人物の肖像がつきものであるのは、ちょっとでも違っていると気がつきやすく、偽造防止に役立つからだと述べ、そうした紙幣の肖像の歴史を概説してゆきます。その第13章「兌換銀行券整理法と聖徳太子登場」は「お札の代名詞だった聖徳太子の初登場」という節で始まっており、以後、戦後の状況を紹介した第17章には「聖徳太子を描いたB1000円券」という節もあります。

 紙幣の人物肖像画は、初めはお雇い外国人キヨッソーネが書いたコンテ画に基づき、日本人彫刻師が彫っていたのですが、聖徳太子の肖像が初登場した昭和5年(1930)の乙100円券は、最初の考証からデザインまで日本人がおこなうこととなり、内閣印刷局図案官の磯部忠一が担当しました。

 磯部は太子に関わる建物、文字、図柄をできるだけ多く盛り込むこととし、「日本銀行」などの字を『法華義疏』の書体で書き、法隆寺の金堂幢の文様を用いるなどの複数の案を示した結果、それらをとりまとめた形で作成されることになった由。ただ、法隆寺や正倉院の宝物などについては、キヨッソーネを含む調査団が既に調査してスケッチを残していたため、それらが参考にされたと推測されるそうです。
 
 顔については御物の二王子像の太子の顔に陰影をつけたえうえ、太子鑚仰者であった東大国史学の黒板勝美にも尋ね、笏を持たせた方が良いとか、明治天皇の壮健時の感じを入れるなどの意見を取り入れて試行錯誤した結果、高貴で理知的な感じ、つまりは理想化された太子像ができあがったわけです。紙幣の右側にその肖像画、左側には夢殿が描かれて完成しました。

 以後、太子の肖像を用いた紙幣は7種類発行されていますが、最初の3回は最初のまま、ないし平版用の版面に直したのみで、以後の4種は、元版を受け継ぎつつ、乙100円劵は森本茂雄、B1000円券は加藤倉吉、C5000円券は押切勝造、C1万円劵は渡部文夫といった彫刻官がそれぞれ彫っており、表情が微妙に違っています。本の表紙に見えるのは、なじみのある1万円の肖像ですね。

 戦後になると、GHQの指令により、軍人などの肖像は禁じられ、岩倉具視・大久保利通・福沢諭吉など明治時代の人物の肖像を用いることになりました。聖徳太子の肖像を継続して使うかどうかについては、GHQと激論がかわされたのですが、日銀総裁の一万田尚登が太子は軍国主義でなく、平和主義であって「憲法十七条」を制定し、博愛精神で政治をおこなったと主張した結果、古代の人物である太子だけは例外として認められました。

 そこで、い100円券に新たに天平の雲と桜を赤色で加刷したA100円券が発行され、以後、最高額の紙幣には聖徳太子の肖像が用いられるのが通例となったのです。ただ、加藤倉吉彫刻官が作成したB1000円券については、昭和37年(1962)に東北・関東で広まった精巧な偽1000円劵事件(チ-37号事件)により、聖徳太子の肖像はそのままにして図柄に訂正を加えた新しい1000円券が発行されたそうです。

 いや、聖徳太子のお札もいろいろ歴史があって面白いですね。 
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