聖徳太子研究の最前線

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湯岡に来遊したのは聖徳太子でなく九州王朝の王者だとする妄説を一蹴:白方勝「伊予の湯の岡碑文と聖徳太子」

2021年06月06日 | 論文・研究書紹介

 大山誠一氏と同様に、いくら証拠を示して批判されても主張を変えないのが、かの九州王朝説の信者たちです。古田武彦氏は、初めは親鸞関連の文書について文献学的に精密な論文を書いて評価されていたのですが、九州王朝説を唱えだした頃からこじつけ文献学に変貌し、強引な自説を支えるためにさらに強引な議論を展開するようになり、最後は『東日流外三郡誌』のような明らかな偽作文書にすがるようになったのは残念なことでした(ただ、『法華義疏』について重要な指摘もしています)。

 九州王朝説が登場してから50年近くになります。その間、飛鳥や斑鳩では『日本書紀』に書かれた記事を裏付ける遺跡や出土品が数多く発見されているのに対し、九州では都市開発、宅地開発が大幅に進んだにもかかわらず、九州王朝の存在を裏付けるような遺跡や碑や木簡などはまったく発見されていません。

 ただ、そんなことでは考えを変えないのが信者の信者たる所以です。この人たちは、自分たちは大和王朝説に立つ反動的な皇国史観の図式から抜け出せずにいる学界や世間の人々を是正してあげているのだ、自分たちこそ合理的かつ民主的な学問をしているのであって、正義の味方なのだと固く信じているため、反論されればされるほど意固地になっていくのです。善意に基づいてワクチン陰謀説を広めるようになったトランプ大統領支持者たちみたいですね。

 学界ではまったく相手にされていませんが、歴史好きな市民たちに対する影響は大きく、意外なところにまで及んでいます。たとえば、「歴史を愛好する者の一人」だという合田洋一氏などは、明治大学の史学専攻を卒業しておりながら、古代史について書くとなると、序の冒頭第一行で「古代史ほどロマンを掻き立てるものはない」と断定する姿勢のためか、

合田洋一『聖徳太子の虚像-道後来湯説の真実』
( 創風社出版、2004年)

のように、古田説に基づくトンデモ本を出してしまうのです。これを小気味よく一刀両断したのが、

白方勝「伊予の湯の岡碑文と聖徳太子」
(『伊豫史談』339号、2005年10月)

です。

 愛媛大学で長らく教え、近松門左衛門などの研究で知られる白方氏は、『源氏物語』研究会に参加し続けた副産物として『紫式部日記臆説』(風間書房)を書いています。この本は、紫式部は不美人だったのかとか、『尊卑分脈』では藤原道長の「妾」と書かれているが本当かといった問題について、軽妙な筆で論じており、楽しい本です。

 このため、私は会ったこともないのに、『紫式部日記』研究の先輩として勝手に親しく思っていました(私の学問の出発点は、浪人の頃に取り組んでいた『紫式部日記』です)。しかし、聖徳太子に関する論文も書いていたというのは、数年前に知ったばかりです。

 さて、その白石氏は、「法興六年十月」に伊予の温泉に「法王大王」たる「上宮聖徳皇子」が来遊したと記す『伊予国風土記』の佚文をとりあげ、九州王朝の「法王」と「大王」という二人の兄弟王が来たのだと説く古田説を批判します。

 白石氏は、『日本書紀』が天皇となる予定の「王(=皇子・皇女)」を「大王」と呼んでいる例を示します。そして、碑の序では「我が法王大王」と親しみを持った呼び方をしていることに注目し、「法王大王」を「法大王(のりのおおきみ)」と同じ用法とし、兄弟王とする解釈を否定します。

 「法王大王」の表現のうち、「法王」が『維摩経』に基づくことには気づいておられないですが、「法大王」を仏教熱心な「のりのおおきみ」という生前の尊称と見る点は私と同意見ですね(このブログで湯岡碑文について書いたのは、こちらこちら)。

 白井氏はさらに、古田氏は『失われた九州王朝』では「法興」を九州年号の中に入れていなかったものの、後の『法隆寺の中の九州王朝』では、「法王大王」を「法王」と「大王」に分解して二人の兄弟王だとし、「法興」は九州王朝の「傍系」の年号だと説くようになったと述べ、その無理さを指摘します。

 九州年号で言えばこの時期は「吉貴」3年に当たるため、別々の年号を使っているなら二王朝となるはずですし、兄弟統治なら年号は一つで良いはずだからです。「傍系」の年号というのは、いったい何なのか。

 また、伊予については、『万葉集』では斉明天皇に従って来た額田王が伊予の熟田津(にぎたつ)で歌を詠んだとされているものの、古田説では熟田津は伊予にはなく、九州の佐賀県の「新北」だとしていました。白石氏は、「新北」なら「にひ・きた」であり、「に・きた」に変化することはありうるものの、「にき・た」である「熟田津」と表記するのは不自然と説きます。

 ところが、合田氏の本では、その性格不明の「法興」を九州王朝の確定した年号としたり、熟田津の歌についても九州の「額田王」の歌であって、大和王朝がそれを大和王朝の「額田王」の歌だと書き換えた可能性があるとするなど、強引さが増しています。

 白石氏は、こうした合田氏の解釈法については、大和王朝が九州王朝の事績を書き換えたとする九州王朝説論者は、古代の歌のほとんどについて、作った場所や作者を勝手に変えることができてしまうと説き、その恣意的な解釈法を批判します。

 このほか、いろいろな主張をとりあげて九州王朝説信者たちの弱点をついていますが、氏がこうした批判を書いたのは、古代史好きの一般市民だけでなく、研究者の中にもそうした路線で書く人たちが出てきたのを見て危機感を覚えたためでした。これは、聖徳太子虚構説が一般世間に広まりつつあったのを見て危機感を覚え、このブログを始めた私と似てますね。

 むろん、九州王朝説説信者ではない研究者でも、松原弘宣氏のように太子の伊予来訪を瀬戸内海交通史の観点から否定している研究者もいます。こういう異説は学問では当然ありうるものであって、論争がなされればなされるほど研究は進展しますので、松原氏の主張については、いずれ取り上げましょう。

 なお、白石氏の批判論文のうち、碑文を書いた人物については、私は白石説に賛同できないため、こちらについてもそのうち書きます。

【追記:2021年6月7日】
合田洋一氏について、ひかりごけ事件や紅白歌合戦などについてすぐれたノンフィクションを書いていると記しましたが、似た名前の別の「合田」氏のことであって誤解でした。その部分を削除します。
【追記:2022年4月17日】
松原氏の本を批判的に検討した記事を書いたものの、ここに付記しておくことを忘れてました。こちらです。