前回の記事で、近江氏が「新しい国家の運営は王族が中心となるべきという固い決意があったと考えられる」と述べているのは、戦前の古い図式に引きずられたものとコメントしておきました。
『日本書紀』では、後の天皇系統の祖となる中大兄皇子(天智天皇)たちのクーデターを正当化するため、蝦夷・入鹿は悪者として描かれています。馬子については意外にも賞賛記事ばかりですが、戦前の皇国史観に基づく研究では、馬子についても皇室の権威を確立しようとした厩戸皇子と横暴な豪族との対立、という図式で眺めようとしていました。
『日本書紀』の記述を客観的に検討しようとしないことから来るかたよった説ですが、この図式は戦後になって否定される一方で、形を変えて生き残っています。そうした見方に反発し、この対立図式を単純にひっくり返すと、実際には蘇我馬子こそが大王だったという、これまた極端な主張が出てくるわけです。
このような空しい議論を批判し、蘇我氏悪玉説を疑って『日本書紀』の記述を見直した例が、
遠山美都男『蘇我氏四代の冤罪を晴らす』
(学研新書、2008年)
です。遠山氏は、『蘇我氏四代:臣、罪を知らず 』(ミネルヴァ書房、2006年)などの研究書を出しており、それを読みやすい一般向けの新書にしたのが、この本です。
遠山氏は、蘇我氏は百済系渡来人であったとする説を批判し、この説が広まった理由の一つに江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝説」の影響があったことを指摘します。蘇我氏が急に台頭し、新たな政策を次々におこなった背景がその出自に求められたのです。騎馬民族説は、馬に関する考古学的な研究によって否定され、消えていますが、その影響の余波がしばらく残ったのです。
遠山氏は馬子が「葛城馬子」と名乗り、かつての大豪族であった葛城の土地が自分の故郷であるからその土地を拝領したいと願い出たのは、守屋が父方の物部氏の名と母方の弓削氏の名に基づいて物部弓削守屋と名乗っていたことから見て、馬子の母が葛城氏出身であったためと推測します。
そして、蘇我稲目がなった「大臣」とは、群臣、つまり「太夫(まえつきみ)」と呼ばれ君主の前に集まって協議する有力な豪族の臣下たちを統括する職、「大まえつきみ」なのであって、それまで世襲制度が確立していなかった王権を支える制度として誕生したと説きます。つまり、後に「天皇」となっていく「大王」の権力強化と、「大臣」の権力強化は平行しており、両者は同じ利害関係にあったと見るのです。これは、中国北朝や新羅などの例から見ても納得できる議論です。
そして、その稲目が娘たちを欽明天皇に嫁がせ、生まれた皇子やその子供たちが次々に天皇となっていくことにより、外戚としての蘇我氏の権威が高まっていくことになります。
馬子は崇峻天皇を暗殺したことで有名ですが、これは敏達天皇の后であって蘇我氏の血を引いている額田部王女(推古天皇)を初めとする皇族や他の豪族たちの合意に基づくものであって、外交政策などの対立が背景となっており、ある意味では、馬子の政策に近い日本最初の女帝を誕生させるための行為であったと見ます。
その結果、推古天皇が即位し、父方母方とも蘇我氏の血を引く最初の皇子である厩戸皇子と馬子が推古天皇を補弼し、仏法紹隆などの新政策をとっていくわけです。その厩戸皇子と馬子が対立していたとする研究者は、厩戸皇子が斑鳩に移住したのは、馬子との権力闘争に敗れたためとするのですが、遠山氏は、厩戸皇子が政治に参画するようになったのは、むしろ斑鳩移住の後であることに注意します。
実際、斑鳩寺は馬子の配下にあった工人たちによって建立されており、対立していたとは考えられません。ただ、遠山氏は一方で、蝦夷に背いた蘇我氏同族の境部摩理勢、蝦夷・入鹿を滅ぼした蘇我倉山田石川麻呂などの例を見ると、厩戸皇子が馬子と長らく良好な関係にあったとは限らないします。単純な対立図式はとらないのです。
これは私も賛成であり、七世紀初めから半ばまでは、「皇室vs蘇我氏」ではなく、強大になりすぎた蘇我氏内部の対立が主であって、皇子たちはそのどちらかの勢力について対立したというのが実態であるのに、『日本書紀』がそれを「皇室vs蘇我氏」の図式に改めたものと考えています。
厩戸皇子については、遠山氏は、王位継承を安定化させるためもあって、厩戸王の数多い子どもたちの養育用に諸国に壬生部を与えられていて裕福であったとし、外交については高句麗の慧慈の助言を承けつつ慎重派、性格としては将来は大王になると確信しており、頭は良いが野心的な俗物だったのではないかと説きます。従来の聖徳太子の人物象とははかなり異なる見方を示すのです。
また、この記事では扱いませんが、遠山氏は蘇我氏をキングメーカーと見ており、蝦夷を大臣としての職務に忠実であろうとしつつ、甥にあたる山背大兄の将来を心配する温情も示したとして描かれている点に着目するなど、従来の蘇我氏のイメージに縛られずに蘇我氏について考察しており、私も賛成する点が少なくありません。
遠山氏は、蘇我氏悪玉説に立つ研究を批判しますが、これまで述べてきたように単純な対立図式を疑いますので、「エピローグ」では、『日本書紀』のうち、「蘇我氏について好意的な記述だからといって、それを鵜呑みにはできないことを肝に銘じるべきだ」と注意をうながしています。そして、「なぜそのように書かれているかを考えて、その主張(証言?)の質を見極めていかねばならないであろう」と述べて締めくくっています。
『孟子』 尽心篇下では、『書経』について、「尽く書を信ずれば、則ち書無きにしかず(すべての記事を信じ込むようなら、書物など無い方がましだ)」と述べていますが、まさにその通りですね。
『日本書紀』では、後の天皇系統の祖となる中大兄皇子(天智天皇)たちのクーデターを正当化するため、蝦夷・入鹿は悪者として描かれています。馬子については意外にも賞賛記事ばかりですが、戦前の皇国史観に基づく研究では、馬子についても皇室の権威を確立しようとした厩戸皇子と横暴な豪族との対立、という図式で眺めようとしていました。
『日本書紀』の記述を客観的に検討しようとしないことから来るかたよった説ですが、この図式は戦後になって否定される一方で、形を変えて生き残っています。そうした見方に反発し、この対立図式を単純にひっくり返すと、実際には蘇我馬子こそが大王だったという、これまた極端な主張が出てくるわけです。
このような空しい議論を批判し、蘇我氏悪玉説を疑って『日本書紀』の記述を見直した例が、
遠山美都男『蘇我氏四代の冤罪を晴らす』
(学研新書、2008年)
です。遠山氏は、『蘇我氏四代:臣、罪を知らず 』(ミネルヴァ書房、2006年)などの研究書を出しており、それを読みやすい一般向けの新書にしたのが、この本です。
遠山氏は、蘇我氏は百済系渡来人であったとする説を批判し、この説が広まった理由の一つに江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝説」の影響があったことを指摘します。蘇我氏が急に台頭し、新たな政策を次々におこなった背景がその出自に求められたのです。騎馬民族説は、馬に関する考古学的な研究によって否定され、消えていますが、その影響の余波がしばらく残ったのです。
遠山氏は馬子が「葛城馬子」と名乗り、かつての大豪族であった葛城の土地が自分の故郷であるからその土地を拝領したいと願い出たのは、守屋が父方の物部氏の名と母方の弓削氏の名に基づいて物部弓削守屋と名乗っていたことから見て、馬子の母が葛城氏出身であったためと推測します。
そして、蘇我稲目がなった「大臣」とは、群臣、つまり「太夫(まえつきみ)」と呼ばれ君主の前に集まって協議する有力な豪族の臣下たちを統括する職、「大まえつきみ」なのであって、それまで世襲制度が確立していなかった王権を支える制度として誕生したと説きます。つまり、後に「天皇」となっていく「大王」の権力強化と、「大臣」の権力強化は平行しており、両者は同じ利害関係にあったと見るのです。これは、中国北朝や新羅などの例から見ても納得できる議論です。
そして、その稲目が娘たちを欽明天皇に嫁がせ、生まれた皇子やその子供たちが次々に天皇となっていくことにより、外戚としての蘇我氏の権威が高まっていくことになります。
馬子は崇峻天皇を暗殺したことで有名ですが、これは敏達天皇の后であって蘇我氏の血を引いている額田部王女(推古天皇)を初めとする皇族や他の豪族たちの合意に基づくものであって、外交政策などの対立が背景となっており、ある意味では、馬子の政策に近い日本最初の女帝を誕生させるための行為であったと見ます。
その結果、推古天皇が即位し、父方母方とも蘇我氏の血を引く最初の皇子である厩戸皇子と馬子が推古天皇を補弼し、仏法紹隆などの新政策をとっていくわけです。その厩戸皇子と馬子が対立していたとする研究者は、厩戸皇子が斑鳩に移住したのは、馬子との権力闘争に敗れたためとするのですが、遠山氏は、厩戸皇子が政治に参画するようになったのは、むしろ斑鳩移住の後であることに注意します。
実際、斑鳩寺は馬子の配下にあった工人たちによって建立されており、対立していたとは考えられません。ただ、遠山氏は一方で、蝦夷に背いた蘇我氏同族の境部摩理勢、蝦夷・入鹿を滅ぼした蘇我倉山田石川麻呂などの例を見ると、厩戸皇子が馬子と長らく良好な関係にあったとは限らないします。単純な対立図式はとらないのです。
これは私も賛成であり、七世紀初めから半ばまでは、「皇室vs蘇我氏」ではなく、強大になりすぎた蘇我氏内部の対立が主であって、皇子たちはそのどちらかの勢力について対立したというのが実態であるのに、『日本書紀』がそれを「皇室vs蘇我氏」の図式に改めたものと考えています。
厩戸皇子については、遠山氏は、王位継承を安定化させるためもあって、厩戸王の数多い子どもたちの養育用に諸国に壬生部を与えられていて裕福であったとし、外交については高句麗の慧慈の助言を承けつつ慎重派、性格としては将来は大王になると確信しており、頭は良いが野心的な俗物だったのではないかと説きます。従来の聖徳太子の人物象とははかなり異なる見方を示すのです。
また、この記事では扱いませんが、遠山氏は蘇我氏をキングメーカーと見ており、蝦夷を大臣としての職務に忠実であろうとしつつ、甥にあたる山背大兄の将来を心配する温情も示したとして描かれている点に着目するなど、従来の蘇我氏のイメージに縛られずに蘇我氏について考察しており、私も賛成する点が少なくありません。
遠山氏は、蘇我氏悪玉説に立つ研究を批判しますが、これまで述べてきたように単純な対立図式を疑いますので、「エピローグ」では、『日本書紀』のうち、「蘇我氏について好意的な記述だからといって、それを鵜呑みにはできないことを肝に銘じるべきだ」と注意をうながしています。そして、「なぜそのように書かれているかを考えて、その主張(証言?)の質を見極めていかねばならないであろう」と述べて締めくくっています。
『孟子』 尽心篇下では、『書経』について、「尽く書を信ずれば、則ち書無きにしかず(すべての記事を信じ込むようなら、書物など無い方がましだ)」と述べていますが、まさにその通りですね。