聖徳太子虚構説は、大山誠一氏が提唱し、盟友の吉田一彦氏が道慈作文説を補強して始まりました。しかし、当初は信仰的な聖徳太子像を大胆に否定する大山氏の姿勢に共感した人たちも、虚構説の個々の主張の無理さが知られるようになり、また「私の説にこれまで学問的な反論はない」とうそぶき続ける大山氏のもの言いに反発して次第に離れていきました。
賛同していた人たちも一人また一人と消えていった結果、不比等・長屋王・道慈が『日本書紀』編集の最終段階で、斑鳩に宮と寺を建てた程度で国政に参加するほどの力はなかった「厩戸王」をモデルとし、律令制における理想的な天皇の模範となる<聖徳太子>像を作ったのであって、実際に書いたのは道慈だとする大山説については、吉田さんが支持する論を時々述べるだけになったことは、このブログでも紹介してきたところです。
ただ、反対説を具体的に検討しようとすらしない大山氏と違い、吉田さんの場合は、10年ほど前に書いた論文では、虚構説の枠組みを維持しつつも、この問題を東アジア全体の中で考えようとしており、森博達さんや私の虚構説批判も読んで論文で紹介するなど、文献学者としての姿勢を見せていました(こちら)。
こうした点は、大山説批判の抜刷を送っても返事をせず、自分の論文でも触れようとしない大山氏との違いですので(ですから、送るのはやめました)、私は吉田さんとは学問的な交流が続いています。
ところが、このブログで取り上げるのを忘れていましたが、その吉田さんが、古代日本仏教を概説した最近の論文では、この問題から撤退していました。
吉田一彦「第一章 文明としての仏教受容」
(大久保良峻編『日本仏教の展開』、春秋社、二〇一八年)
です。
吉田さんは、この章の第一節の「六、七世紀の仏教」では、「全体の概観ー六、七、八、九世紀の日本の仏教」「仏教の初伝説話」「飛鳥寺の成立」「中央の寺院の諸相」「地方豪族の寺院」「現存最古の写経」に分けて論じていますが、「聖徳太子」も「厩戸王」も出てきません。むろん、斑鳩寺も四天王寺も同様です。
蘇我馬子が百済からの贈与を受けて寺院を造営した、とあるのみです。これだと、馬子は受け身だったように見えますが、最近の研究では、新羅と対立し、軍事支援を求めて日本に仏教を何度も送ろうとしていた百済が、仏教を広めようとする馬子からの要請を受けて技術者を派遣したとする見方が増えているように思います。
それはともかく、聖徳太子も厩戸王もまったく登場しないものの、吉田さんが大山氏とともに博学さを強調し、理想的な聖人としての<聖徳太子>像を記述したとその役割を強調してきた道慈については、第二節の「八世紀の仏教」のところに「中国仏教の本格的受容ー道慈の活動」という項目が立てられていました。
そこでは、道慈が唐の仏教を本格的に導入したことが紹介されていますが、末尾では、『日本書紀』の仏教伝来記事の作成に関わったのは道慈だとする説があり(井上薫氏ですね)、自分はそれを「継承、発展させて仏教伝来記事およびそれに続く一連の関連記事は道慈によって作成された蓋然性が高いと論じた」(22頁)と記されていました。
つまり、「それに続く一連の関連記事」という曖昧な書き方になっており、道慈が聖人としての厩戸皇子の記事を書いたという主張は表に出なくなっています。厩戸皇子関連の記事を書いたかどうかはともかく、仏教伝来記事は道慈が書いたのだという点だけは守りたいという姿勢、あるいは、現在どう考えているかはともかく、過去にそうした主張をしたことは事実だと認める姿勢ですね。
厩戸皇子関連の記事を含め、『日本書紀』の仏教記事は和習だらけであって、唐に16年も留学した道慈が書くはずがないとする批判や、だから道慈作文説は撤回するのか部分的に維持し続けるのかなどには触れず、道慈関与については、「蓋然性が高いと論じた」という過去形で終わっています。
もし、これまで支持してきた大山説と自らの道慈作文説に確信があるなら、道慈が『日本書紀』で描いた理想的な<聖徳太子>像によって、以後の日本仏教は大きな影響を受けたと書くべきでしょうね。
「定説となってきた聖徳太子に重点を置く古代史パラダイムをひっくり返してやる!」という意気込みが強すぎて、道慈問題では勇み足をしたものの、文献研究ができる吉田さんは、形勢不利と見て軸足を東アジアの神仏融合研究に移し、そちらですぐれた成果をあげているため(こちら)、過去の虚構説の主張は撤回したと明言しないまま封印したように見えます。
しかし、このブログの先の記事に書いたように、奈良末から平安初期にかけては、太子の慧思後身説が天台宗の進展と重なってきわめて重要な役割を果たしています(こちら)。
以後も聖徳太子信仰は鎌倉時代には熱烈な聖徳太子信仰が広まっており、これを無視して鎌倉仏教を語ることはできませんし、以後の仏教についても、伝記・美術・儀礼その他の面で聖徳太子信仰が与えた影響の大きさは、はかりしれません。『日本書紀』編集の最終段階で創作され、奈良時代に神格化が進んだという立ち場からの記述であれ、聖徳太子に触れないと、8世紀と以後の日本仏教の説明が難しくなるはずです。
一方、長屋王については、今回の吉田論文には「貴族の仏教ー長屋王家木簡の世界」という項目があり、邸内に僧・尼・沙弥などがいたうえ、仏像と聖僧像がまつられていて食事の供養がなされていたり、大量の写経をしたことなどが説かれています。
論文では聖僧像については説明されていませんでしたが、聖僧像は僧侶達が食事する食堂(じきどう)に祀られる像であって、この像があるということは、かなりの数の僧侶が住んでいたことを示します。ところが、大山氏の虚構説では、聖徳太子を三教の聖人とするに当たって、道教好きの長屋王が道教の部分を担当したということになっていました。
虚構説が発表された時点でも、長屋王の熱烈な仏教信仰は既に学界で知られていましたが、大山氏は長屋王邸の木簡の研究で本を書いているほどの専門家でありながら、その長屋王の仏教信仰には触れず、道教好きという点だけを強調していたわけです。それが、今回の吉田さんの論文では、道教には触れられず、いかに仏教に熱心だったかだけが説かれています。
というわけで、考古学・美術史その他の最近の研究成果を無視し、宗教でもあるかのように虚構説を説き続けている大山氏(こちら)をのぞけば、『日本書紀』の最終編纂段階で不比等・長屋王・道慈が勢力のない「厩戸王」をモデルにして三教の理想的な聖人としての<聖徳太子>を創作したとする大山流の聖徳太子虚構説は、これで実質的に終わったと言って良いでしょう。
むろん、『日本書紀』の厩戸皇子が異様に神格化されて描かれていることは確かであって、それらの記述をそのまま史実と認めることはできません。厩戸皇子が実際にどの程度の活動をしたかについては、現在も諸説がありますので、これからも批判的な検討が続いていくでしょう。今後はむしろ、『日本書紀』や様々な伝承を鵜呑みにし、戦前・戦中のようにやたらと聖徳太子を持ち上げて政治的に利用しようとする動きを警戒すべきであるように思われます。
賛同していた人たちも一人また一人と消えていった結果、不比等・長屋王・道慈が『日本書紀』編集の最終段階で、斑鳩に宮と寺を建てた程度で国政に参加するほどの力はなかった「厩戸王」をモデルとし、律令制における理想的な天皇の模範となる<聖徳太子>像を作ったのであって、実際に書いたのは道慈だとする大山説については、吉田さんが支持する論を時々述べるだけになったことは、このブログでも紹介してきたところです。
ただ、反対説を具体的に検討しようとすらしない大山氏と違い、吉田さんの場合は、10年ほど前に書いた論文では、虚構説の枠組みを維持しつつも、この問題を東アジア全体の中で考えようとしており、森博達さんや私の虚構説批判も読んで論文で紹介するなど、文献学者としての姿勢を見せていました(こちら)。
こうした点は、大山説批判の抜刷を送っても返事をせず、自分の論文でも触れようとしない大山氏との違いですので(ですから、送るのはやめました)、私は吉田さんとは学問的な交流が続いています。
ところが、このブログで取り上げるのを忘れていましたが、その吉田さんが、古代日本仏教を概説した最近の論文では、この問題から撤退していました。
吉田一彦「第一章 文明としての仏教受容」
(大久保良峻編『日本仏教の展開』、春秋社、二〇一八年)
です。
吉田さんは、この章の第一節の「六、七世紀の仏教」では、「全体の概観ー六、七、八、九世紀の日本の仏教」「仏教の初伝説話」「飛鳥寺の成立」「中央の寺院の諸相」「地方豪族の寺院」「現存最古の写経」に分けて論じていますが、「聖徳太子」も「厩戸王」も出てきません。むろん、斑鳩寺も四天王寺も同様です。
蘇我馬子が百済からの贈与を受けて寺院を造営した、とあるのみです。これだと、馬子は受け身だったように見えますが、最近の研究では、新羅と対立し、軍事支援を求めて日本に仏教を何度も送ろうとしていた百済が、仏教を広めようとする馬子からの要請を受けて技術者を派遣したとする見方が増えているように思います。
それはともかく、聖徳太子も厩戸王もまったく登場しないものの、吉田さんが大山氏とともに博学さを強調し、理想的な聖人としての<聖徳太子>像を記述したとその役割を強調してきた道慈については、第二節の「八世紀の仏教」のところに「中国仏教の本格的受容ー道慈の活動」という項目が立てられていました。
そこでは、道慈が唐の仏教を本格的に導入したことが紹介されていますが、末尾では、『日本書紀』の仏教伝来記事の作成に関わったのは道慈だとする説があり(井上薫氏ですね)、自分はそれを「継承、発展させて仏教伝来記事およびそれに続く一連の関連記事は道慈によって作成された蓋然性が高いと論じた」(22頁)と記されていました。
つまり、「それに続く一連の関連記事」という曖昧な書き方になっており、道慈が聖人としての厩戸皇子の記事を書いたという主張は表に出なくなっています。厩戸皇子関連の記事を書いたかどうかはともかく、仏教伝来記事は道慈が書いたのだという点だけは守りたいという姿勢、あるいは、現在どう考えているかはともかく、過去にそうした主張をしたことは事実だと認める姿勢ですね。
厩戸皇子関連の記事を含め、『日本書紀』の仏教記事は和習だらけであって、唐に16年も留学した道慈が書くはずがないとする批判や、だから道慈作文説は撤回するのか部分的に維持し続けるのかなどには触れず、道慈関与については、「蓋然性が高いと論じた」という過去形で終わっています。
もし、これまで支持してきた大山説と自らの道慈作文説に確信があるなら、道慈が『日本書紀』で描いた理想的な<聖徳太子>像によって、以後の日本仏教は大きな影響を受けたと書くべきでしょうね。
「定説となってきた聖徳太子に重点を置く古代史パラダイムをひっくり返してやる!」という意気込みが強すぎて、道慈問題では勇み足をしたものの、文献研究ができる吉田さんは、形勢不利と見て軸足を東アジアの神仏融合研究に移し、そちらですぐれた成果をあげているため(こちら)、過去の虚構説の主張は撤回したと明言しないまま封印したように見えます。
しかし、このブログの先の記事に書いたように、奈良末から平安初期にかけては、太子の慧思後身説が天台宗の進展と重なってきわめて重要な役割を果たしています(こちら)。
以後も聖徳太子信仰は鎌倉時代には熱烈な聖徳太子信仰が広まっており、これを無視して鎌倉仏教を語ることはできませんし、以後の仏教についても、伝記・美術・儀礼その他の面で聖徳太子信仰が与えた影響の大きさは、はかりしれません。『日本書紀』編集の最終段階で創作され、奈良時代に神格化が進んだという立ち場からの記述であれ、聖徳太子に触れないと、8世紀と以後の日本仏教の説明が難しくなるはずです。
一方、長屋王については、今回の吉田論文には「貴族の仏教ー長屋王家木簡の世界」という項目があり、邸内に僧・尼・沙弥などがいたうえ、仏像と聖僧像がまつられていて食事の供養がなされていたり、大量の写経をしたことなどが説かれています。
論文では聖僧像については説明されていませんでしたが、聖僧像は僧侶達が食事する食堂(じきどう)に祀られる像であって、この像があるということは、かなりの数の僧侶が住んでいたことを示します。ところが、大山氏の虚構説では、聖徳太子を三教の聖人とするに当たって、道教好きの長屋王が道教の部分を担当したということになっていました。
虚構説が発表された時点でも、長屋王の熱烈な仏教信仰は既に学界で知られていましたが、大山氏は長屋王邸の木簡の研究で本を書いているほどの専門家でありながら、その長屋王の仏教信仰には触れず、道教好きという点だけを強調していたわけです。それが、今回の吉田さんの論文では、道教には触れられず、いかに仏教に熱心だったかだけが説かれています。
というわけで、考古学・美術史その他の最近の研究成果を無視し、宗教でもあるかのように虚構説を説き続けている大山氏(こちら)をのぞけば、『日本書紀』の最終編纂段階で不比等・長屋王・道慈が勢力のない「厩戸王」をモデルにして三教の理想的な聖人としての<聖徳太子>を創作したとする大山流の聖徳太子虚構説は、これで実質的に終わったと言って良いでしょう。
むろん、『日本書紀』の厩戸皇子が異様に神格化されて描かれていることは確かであって、それらの記述をそのまま史実と認めることはできません。厩戸皇子が実際にどの程度の活動をしたかについては、現在も諸説がありますので、これからも批判的な検討が続いていくでしょう。今後はむしろ、『日本書紀』や様々な伝承を鵜呑みにし、戦前・戦中のようにやたらと聖徳太子を持ち上げて政治的に利用しようとする動きを警戒すべきであるように思われます。