聖徳太子研究の最前線

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厩戸皇子は皇太子でなく有力王族として国政に関与した:本間満「古代皇太子制度の一研究」

2021年06月16日 | 論文・研究書紹介
 このブログは聖徳太子実在説の立場ですが、文献的にしっかりした研究であれば、太子の事績を疑う論文なども紹介しています。

今回は、その一つである、

本間満『日本古代皇太子制度の研究』「第六章 古代皇太子制度の一研究-厩戸皇子との連関で-」
(雄山閣、2014年)

を取り上げます。

 本間氏は、古代の皇太子研究を大幅に進展させた荒木敏夫『日本古代の皇太子』(吉川弘文館、1985年)が、皇太子制度は飛鳥浄御原令によって成立したため、厩戸皇子は皇太子にはなっておらず、その政治活動は「有力王族の一人としての関与」にとどまると説いた説を受け継ぎ、その立場で検討を進めます。

 厩戸皇子の立太子を認めた早い研究は、法隆寺金堂の薬師像光背銘が、病気となった「池辺大宮治天下天皇」、つまり用明天皇が「大王天皇与皇太子」、すなわち推古天皇と厩戸皇子を呼び、治病のために仏像建立を誓願したが亡くなったので、没後に「大王天皇」と「東宮聖王」が建立したとあるのを重視した家永三郎であって、家永はこれを皇太子の最初としました。

 ところが、福山敏男が、銘文に見える天皇の呼称は後世の響きがあり、そもそも薬師像自体、天武朝かそれ以後の作だとしたのをきっかけとして批判的研究が進み、薬師像と銘文の成立時期については諸説あるものの、推古朝の作とすることは否定するのが通例となっています。

 本間氏は、『日本書紀』に見える厩戸皇子・葛城皇子・草壁皇子の立太子記事を検討し、すべて年齢が20歳であり、摂政記事が付加され、天皇・皇后の長子とされ、太子期間が長く、没後に尊称が与えられており、3人とも大きな政変の後に立太子されている点に注意します。しかも、厩戸皇子と葛城皇子は、元年に立太子したとされています。

 氏はさらに皇太子を意味する「東宮」について、その宮、東宮に仕える役人などについて検討した後、上記の三皇子の立太子は『日本書紀』編者が「理想的な古代皇太子像として造作したものと考える」と結論づけます。

 そして、皇太子制度の成立を飛鳥浄御原令としつつも、実際の確立を聖武天皇の娘である阿倍内親王が天平10年(738)に立太子した時に求める荒木説を追認し、皇太子制度確立には、天皇の譲位、皇太子即位、新たな皇子の立太子、という図式の確立が必要とします。

 これを逆に言うと、そうした実質をともなわず、名前だけ皇太子と呼ばれる場合があったかもしれないということになりますし、本間氏自身も「単独としての皇太子」があり得たとしています。ただ、その場合は、「その政治的影響力は少しく乏しく、その存在自体も疑問視せざるをえない」と述べ、「厩戸皇子の国政関与は一人の有力皇族としてのものであろう」と説きます。

 確かに厩戸皇子の場合は、制度としての天皇制自体が確立していない時期なのですから、立太子して皇太子となることはあり得ないでしょう。しかし、「国政関与は一人の有力皇族としてのもの」というのは、飛鳥と斑鳩を斜め一直線に結ぶ広壮な太子道の発掘などがなされる前の推測ですね。

 私自身は、最近は『法王帝説』が「上宮厩戸豊聡耳命、嶋大臣と共に天下の政を輔く」と述べているのが実際の状況だったのではないかと考えています。当初は馬子主導だったでしょうし、途中で関係が悪くなった可能性はありますが。