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金堂着工は火災の年より前?: 光谷拓実・大河内隆之「年輪年代法による法隆寺西院伽藍の総合的年代調査」

2010年12月11日 | 論文・研究書紹介
「年輪年代法による調査の結果、法隆寺五重塔の心柱の伐採年代は594年かその直後」と2001年に発表された際は、かなり話題になりましたね。594年と言えば、推古天皇2年であって、「皇太子及び(蘇我馬子)大臣に詔して、三宝を興隆せし」めたところ、多くの者たちが「君臣の恩の為」に競って寺を建てた(=建て始めた)とされる年ですので。

 この発表は、通説となっていた法隆寺再建説をゆるがすものであったため、別の寺の塔の柱を転用したのだとか、その頃伐採されて保存されていた木を利用したのだろうといった様々な解釈が試みられたばかりでなく、年輪年代法という調査法そのものの信頼性を疑う意見も複数出されました。

光谷拓実・大河内隆之「年輪年代法による法隆寺西院伽藍の総合的年代調査」
(『仏教芸術』第308号、2010年1月)

は、奈良文化財研究所においてその年輪年代法による測定を実施した光谷氏が、同研究所の大河内氏と、2002~4年と2008年に法隆寺西院伽藍の総合的な年代調査を行った結果の報告であり、年輪年代法による研究の集大成ともいうべきものとなっています。年輪年代法そのものと、それによる具体的な調査の内容について詳しく説明されていますが、それらの点は省き、結果だけ紹介しておきましょう。

 まず、金堂の部材76点を調査したところ、平安時代や鎌倉時代の修理と推定されるものも含め、年輪年代が確定したものが60点あり、そのうち、外陣天井板には推測伐採年代が667年のもの、内陣天井板は667年と668年のもの、上重雲肘木には669年のものが見られたとか。

 同論文では、これは再建論争にとって「大変微妙な年輪年代」(53頁)である述べています。そして、金堂は『日本書紀』が斑鳩寺の被災の年とする天智9年(670)以前に着工されていた可能性もあるとし、また、金堂とは別の目的で準備していた木材を急遽集め、金堂に使用したことも考えられると説いています。

 五重塔については、594年伐採と判定された心柱は、法起寺三重塔心柱の年輪パターンと酷似していることが明らかになった由。これによって、同じ産地から供給された木材が用いられたことが知られるとのことです。ただ、五重塔のうち、心柱以外の部分については、三重垂木の1点が663年伐採、二重隅行雲肘木の1点が673年伐採、垂木断片が671年伐採であり、火災前後の時期に伐採された木が使われていたほか、四重雲斗雲肘木の部材には631年、635年伐採のもの、初重裳階窓方立は606年、初重裳階腰長押は650年伐採のものもあり、「かなり前に伐採された木材をかき集めて使用された可能性」(58頁下)があるそうです。

 中門の部材については、樹齢700年以上の大径木が使われており、690年前後に伐採された可能性があるとされています。再建の最後頃になって建立されたことは明らかですね。

 技術的な説明が多いため、詳細は省かざるを得ませんが、同論文の結論では、今回の調査では現在の西院伽藍建築について「再建か非再建かという二者択一の結論を見出すことはできなかった」ものの、金堂→五重塔→中門という建立順序を確定しえた(69頁上段)としめくくっています。

 この順序自体は、これまでなされてきた推測と一致しており、従来説の正しさを裏付ける結果となっています。一方、金堂については、『日本書紀』が記す火災とほぼ同時期ながらも微妙に違う伐採年代、ということになりました。そして、五重塔の心柱の伐採年代については、前回の調査の結論そのままであって、修正などはなされていません。

 さて、研究者たちは、こうした報告をどう解釈するのか。いや、他人事でなく、私自身も考えていかないと……。そういえば、この調査に立ち会って助言したという鈴木嘉吉氏は、金堂だけは火災以前に建立され始めていたとする説でしたね。

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