聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

田中英道『聖徳太子虚構説を排す』の問題点

2010年12月16日 | 太子礼讃派による虚構説批判の問題点
 出版はだいぶ前になりますが、現在も一般読者にある程度の影響を与えているようなので、聖徳太子虚構説を批判している本について検討しておきましょう。

田中英道『聖徳太子虚構説を排す』
(PHP研究所、2004年)

です。

 聖徳太子の存在を全面的に否定する大山誠一氏の著作が、結論先行で想像と断定が多いのと同様、聖徳太子礼讃・伝承説尊重の立場に立って大山氏の太子虚構説を厳しく批判するこの本も、結論先行で想像と断定的な物言いが目立ちます。また、西洋美術史学者である田中氏は、キリスト教美術に馴染んでいるためもあってか、「天寿国」は「キリスト教の天国とさえ思われる」(98頁)とか、キリスト教の一派である景教(ネストリウス派)の「景教」とは「光明の教え」の意味であって光明皇后の名はそれに由来する(95頁)と述べるなど、学界では認められていない突飛な主張をしている箇所も少なくありません。

 まず、同書は、通説に反対し、現在の法隆寺は再建でないとする主張から始まります。田中氏は、法隆寺西院伽藍は聖徳太子が用明天皇のために建立したものであり、若草伽藍は聖徳太子のために発願された釈迦三尊像を本尊として建立された、とする戦前の別寺説に賛成します。670年の火災で焼けたのは、若草伽藍の方であって、より古い法隆寺は創建当時のままだとするのです。そう主張する最大の根拠は、五重塔心柱の伐採年代は594年だとする年輪年代法の調査結果です。

 年輪年代法による最新の調査については、前回の記事で紹介した通りです。この調査をした研究者たちは慎重であって、心柱の伐採年代によって再建非再建問題が完全に解決したとは主張していないうえ、西院伽藍については、670年の火災前後に伐採された木材を使った金堂 → 心柱だけ異様に古く、後は新旧寄せ集めの部材を使った五重塔 → 690年頃伐採の部材を使った中門、という建立順序を想定しており、聖徳太子当時の建立という説は成り立ちません。また、最初期の寺である飛鳥寺や豊浦寺の瓦を受け継いでいて古いのは、若草伽藍の金堂の瓦であって、西院伽藍の瓦はそれよりずっと新しいことが判明しています。田中氏は両伽藍の瓦にも触れているものの、最近の研究成果を正しく紹介していません。

 三経義疏については、藤枝説で決着がついたと断定する大山氏と違い、漢文の誤りなどについて、「私たちはそうした文献的な研究成果を待つだけである」(148頁)と述べているのは、妥当な姿勢です。ただ、三経義疏真撰説については、花山信勝などの先行研究に基づいて論じており、新たな証拠は示されていません。

 天寿国繍帳については、先行研究に基づいて真作であることを強調していますが、「世間虚仮、唯仏是真」における「世間」という語は、「『法』とか『諸行』といった仏教的な言葉と異なる、日本人の社会のあり方への独特な見方を感じさせる」(68頁)だというのは、無理な議論です。
 
 確かに、「世間」という語は現在では日常語として定着していますが、7世紀当時にあっては耳慣れないモダンな用語であって、今で言えば「DNA」に当たるような語感があったはずです。中国では「世間」の語は仏教以外の場面でも使われていますが、用例はきわめて稀です。梵語の manuşya-loka の漢訳語である「世間」を僧侶以外の人々が頻繁に用いるようになるのは隋唐以後であって、その場合でも仏教を意識した場面に限られます。

 日本においては、「世間」どころか、それを和語にした「世の中」という語でさえ、『万葉集』ではモダンな印象を与える表現として用いられていることは、講演で触れたことがあります(石井公成「恋歌と仏教--『万葉集』『古今集』『伊勢物語』--」、武蔵野大学編『心 日曜講演集』25集、2006年4月)。

 また、田中氏は、聖徳太子伝説について述べる際、「馬小屋で生まれた」(97頁)としてキリストとの類似を指摘し、戦前に唱えられた景教影響説を再評価するのですが、これも「厩」という語の現在のイメージにとらわれ、文脈と当時の語感に注意していない読み方です。

 『日本書紀』推古元年の「(宮中の役所を視察して回っていた皇后が)馬官に至り、厩戸に当たりて」安らかに産んだという記述は、現代に置き換えれば、「皇室の御用自動車の車庫兼整備工場[英国から派遣された技術スタッフやその二世・三世が仕切っており、英語で話している]を視察した際、その入り口まで来たところで安産した(そのせいもあってか、太子は成人すると車好きとなり、スポーツカーを高速で飛ばすようになった)」などといった感じでしょうか。『日本書紀』は、伝承に基づいて潤色しているのでしょうが、そもそも后が宮中の役所を視察していて「厩戸に当たりて」安産したというのと、「馬小屋の中で生まれた」とでは大変な違いです。

 「百済入朝して、龍編(中国古典)を馬厩に啓[ひら]」いたとする『懐風藻』の序や、百済王が阿直伎を派遣して良馬二頭を献上し、阿直伎は「軽の坂上の厩」でその馬を飼うとともに、儒教の書物に通じていたため「太子菟道稚郎子」の「師」となって教えたとする『日本書紀』応神天皇15年条の記事に着目した新川登亀男さんは、「厩」で馬を飼う者が「太子」を教育する「師」でもあり、「厩」は当時は「教育発信と受容の場でもあった」ことに注意しています(『聖徳太子の歴史学』19-20頁)。「厩」と聞いてすぐ、キリストが生まれた馬小屋を思い浮かべるのではなく、『日本書紀』や天寿国繍帳銘などの資料は、それが書かれた当時の常識と語感に基づいて読まねばなりません。
 
 光明皇后というか、光明子の「光明」にしても、『続日本紀』を読み、また光明皇后・聖武天皇、そしてその娘の孝謙天皇の強烈な『金光明最勝王経』信仰を考えつつその『金光明最勝王経』を読めば、「光明」の由来は明らかです。同経のどの箇所が重要かは、先日、東大寺で行なった講演で述べましたが、別に書きます。

 田中氏は、谷沢永一『聖徳太子はいなかった』を猛烈に攻撃しています。そのように激しく非難するに至る経緯はどうであれ、谷沢氏のこの本は、大山説ときわめて限られた文献だけに基づいて書きとばした間違いだらけの駄作です。近代の書誌学が専門で古代は弱い谷沢氏は、三経義疏を真撰として高く評価していた時期も、三経義疏は「世界で最古の学問書の一つである」と主張するなど、出鱈目を書いていました。三経義疏は、太子の真撰だとしても7世紀初めなのであって、古代のギリシャやインドや中国などの書物に比べれば遙かに後代のものなのですから(インドでは口承が基本であって書物の形になるのは遅いですが)、「世界で最古の学問書の一つ」などというのは、ひいきの引き倒しです。

 ところが、田中氏は、谷沢氏が聖徳太子礼讃の立場から「聖徳太子はいなかった」説に節操なく転じたとして非難する一方で、その谷沢氏が聖徳太子を礼讃していた時期の文章、すなわち、「聖徳太子は……布教はしなかったし、させもしなかった。独り書斎にあって法華経、維摩経、勝鬘経などを読み、研究をした。……仏教を『信じる宗教』ではなく『人生の知恵』だと受け取った証拠である」という文章を引用したうえで、「私もこの聖徳太子への考え方に賛成である」(120頁)と述べているのですから、まったく理解できません。

 これは、大正教養主義などに見られる書斎派の知識人のあり方ではないでしょうか。谷沢氏にしても田中氏にしても、三経義疏そのものや釈迦三尊像銘などを、現代語訳などでなく、原文できちんと読んでもらいたいものです。そういえば、田中氏が釈迦三尊銘の趣旨について説明した箇所も、「太子の病気回復と安寧を祈って太子等身大の釈迦像をつくろうとした」(49頁)とあるのみです。延命が無理なら「浄土に往登し、早く妙果に昇」られるよう願った部分に言及しておらず、かたよった説明になっています。

 こうした例は他にいくつもあります。田中氏は、『日本書紀』などの太子関連の記述をそのまま信じて太子の偉大さや法隆寺の芸術的意義を強調し、当時の日本文化の素晴らしさを説こうとしておりながら、実際には、キリスト教に引きつけて解釈したり、氏が好ましく思う近現代のあり方を太子のうちに読み込むなど、歴史を無視した主張を重ねているのです。
 
 大山氏の常識外れの美術史理解をたしなめたところなどは妥当であるものの、批判の多くは、大昔の古くなった諸説を含む従来の研究成果と、田中氏が想定する聖徳太子像に基づくものであって、新たに客観的な証拠を示して大山説を論破したと言える箇所は、ほとんど無いように思われます。

 田中氏のこの本は、漢文資料の読解と仏教理解の面が十分でなく、結論先行であって歴史の実状や最近の研究成果を無視した想像や断定が多いといった点では、最初に述べたように、大山氏の著作に良く似ているという印象を受けます。大山氏との類似と言えば、津田左右吉の著作をきちんと読まずに津田に論究する点も同じですね。

 大山氏は、津田左右吉説のうち自説に都合の良い箇所だけを孫引きで使い、津田は「憲法十七条」は奈良時代初期に『日本書紀』の編纂者が作成したと述べたなどと事実に反する主張をしていました。大山氏は他にも、津田は「早稲田大学教授を追われ」た(『聖徳太子と日本人』)などと誤ったことを書いており、古代史の批判的研究の先駆者である津田の伝記も読んでいないことが知られます。

 一方、田中氏は、太子について「明治以降、実証主義とマルクス主義が移入されてから、この人物が天皇に近い権力者の一人であるというので、さらに疑う史家が多くなった。典型は津田左右吉氏である。……彼の否定論……」(156-7頁)と述べ、津田はマルクス主義に近い実証学者であって聖徳太子不在論を述べていたかのように書いています。

 しかし、津田は、皇室を敬愛し日本文化の独自性を強調する明治人らしいナショナリストであってマルクス主義に反対しており、聖徳太子の存在を認めていました。「憲法十七条」や三経義疏などを後代の作と見たことは事実ですが、薬師如来像銘や釈迦三尊像銘などの金石文を史実とみなしていましたので、聖徳太子不在論を唱えたわけではありません。

 ナショナリストでありながら『日本書紀』に見える神話や超人的な聖徳太子像を疑う津田の姿勢は、聖徳太子を尊崇すればこそ後代の伝説を荒唐無稽な神話化として否定した久米邦武の姿勢に、多少似た面があります。その津田を攻撃して著書の発禁にまでもっていった超国家主義的な聖徳太子礼讃者たちについては、このブログの以前の記事で紹介した通りです。

【追記 12月14日にアップしましたが、年輪年代法関連の記述を詳しくするなどの訂正をしましたので、新たに再アップします】
この記事についてブログを書く
« 金堂着工は火災の年より前?... | トップ | 田中英道『聖徳太子虚構説を... »

太子礼讃派による虚構説批判の問題点」カテゴリの最新記事