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田中英道『聖徳太子虚構説を排す』の問題点(3):厩戸皇子の誕生描写は仏伝による

2010年12月28日 | 太子礼讃派による虚構説批判の問題点
 前々回、田中英道『聖徳太子虚構説を排す』が戦前の景教影響説を受け継ぎ、厩戸皇子の誕生時の記述は「馬小屋で生まれた」イエスの話と類似すると主張していることを批判しました(ここです)。

 その時の記事について、聖書ではイエスが馬小屋で生まれたとは明記しておらず、牛やロバがいる家畜小屋で生まれたとする伝承も成立が遅いのに、日本では馬小屋誕生が常識となった経緯を書いた京都産業大学の平塚徹氏のページ「イエスは馬小屋で生まれたか?」に着目した国家鮟鱇さんが、自らのブログでとりあげ、景教影響説を批判するなら、イエスは馬小屋で生まれていないことを根拠とすべきではないか、とコメントされました。

 私はもともと唐代仏教が専門なので、唐代の景教については、前から中国・日本の研究書や論文を集めて調べていたものの、そうした視点からの検討は頭になかったため、感謝していろいろな調査を始めたところです(現存する僅かな景教の漢文文献では、「末艶(マリア)」は「涼風(聖霊)」によって妊娠して「移鼠(イエス)」を生んだとあるのみで、生まれた場所に関する記述はありません)。
 
 国家鮟鱇さんはまた、后が宮中の役所を視察して回っていた際に「厩戸に当りて」産んだというのと「馬小屋で生まれた」というのは大変な違いだとした私の主張について、それはそうだが、馬という点が共通している以上、反論としては十分ではないだろう、としています。

 これは確かにもっともな指摘であって、説得力が弱いのは、私の説明不足によるものです。実は、あの文章は、厩戸皇子の誕生場面は仏伝に基づくらしいと気づきながら、ネタの出し惜しみをして書いたため、ああした中途半端な言い方にとどまっていたのです。あの文章の力点は「~に当りて」にありました。

 その仏伝を紹介する前に、『日本書紀』の該当箇所を見ておきましょう。仏伝と比較しやすくするため、古訓のように和語風に訓み下すのではなく、漢語そのままの通常の漢文訓読風にしておきます。

 皇后、懐姙開胎の日に、禁中を巡行して、諸司を監察す。馬官に至りて、乃ち厩の戸に当りて、労せずして忽(たちま)ち産む。生れて能(よ)く言ふ。

 要素としては、(1)皇后が、(2)臨月の際、(3)宮中の役所を、(4)あちこち見て回り、(5)馬の役所に至り、(6)厩の戸に、(7)「当りて」=まさにそこで(立って、ぶつかって、よりかかって)、(8)「不労(苦しまない、疲れない)」の状態で産み/生まれ、(9)生まれるとすぐ話した、ということになります。

 「厩」という語は、当時にあっては最先端の技術・知識を思わせるイメージがあったことは、前に書いた通りですが、上の要素のうち私が特に注目するのは、「~に当りて」という言い回しです。「厩」という語にだけ着目してキリスト誕生を思い浮かべるのでは、『日本書紀』の記述を当時風な漢文で書かれた「文章」として読んでいるのではなく、目についた単語を現代語に置き換えているだけにすぎません。

 さて、数ある仏伝のうち、よく読まれた隋・闍那崛多訳『仏本行集経』の「樹下誕生品」を訓読で示せば、次の通りです。釈迦を「菩薩」と呼んでいるのは、仏となる前のあり方を示す伝統仏教の用法です。

 (浄飯王の夫人である)聖母摩耶、菩薩を懐孕し、まさに十月に満たんとす。……(摩耶夫人は、出産で亡くなる危険もあるとする父(大臣)の要望で実家に帰り、父が造らせたルンビニーの華麗な園林におもむき)処々観看し、此の林より復た彼の樹に向かう。かくの如く次第し、周匝[経めぐり]して行く。然るにその園中に、別に一樹有り、波羅叉と名づく。……彼の(素晴らしい波羅叉)樹の下に至る。……(胎内の菩薩が、摩耶夫人に普通の出産のような「身体遍痛」や「大苦悩」を与えないよう念じると)是の時、摩耶、地に立ち、手をもって波羅叉樹の枝を執[と]りおわりて、即ち(右脇からするすると)菩薩を生む。……如来、仏道を成ずるを得おわりてより「無乏無疲、不労不倦」にして、よく一切の煩悩諸根を抜く。……菩薩、生まれおわりて、人の扶持すること無く、即ち四方に行くこと、面ごとに各の七歩。……口に自ら言を出だす。(大正蔵3巻、685b~687b)

 以上です。「王の夫人が」、「臨月の身で」、あちこちの樹を「見て回り」、ある樹の下に<至り>、(邸内でなく)その樹<のところで>立って枝に手をかけたところ、「苦しむことなく子を生んだ」が、如来は悟ってからは<不労>であり、「生まれるとすぐ話した」、という流れです。

 『日本書紀』では、間人皇后が宮中の役所を監察して回ったという無理な設定にしてますが、何で出産直前の妊婦が役所を巡察する必要があるのか。これはやはり、仏の誕生時に臨月の摩耶夫人が園林の素晴らしい樹から樹へと巡り歩いて眺めたというのを、太子の命名伝承にあったのであろう「厩」がらみの話にするため、仏誕生の場面を利用して描いたためと思われます。

 『日本書紀』の「厩戸に当りて」は、『日本書紀』編纂者が「その樹のところで、立ってその枝に手をかけたまま」の「樹」を、「厩戸」で置き換えたか、僧侶などが既にそのような釈迦の誕生になぞらえた命名伝承を造っており、それを『日本書紀』編纂者が潤色したものと考えます。いかがでしょう?

 なお、『日本書紀』の太子関連記述は、中国の類書(文例による百科事典)から、「聖」や「帝」に関する表現を切り貼りして用いているらしいことは、このブログに置いてある拙論「聖徳太子伝承中のいわゆる「道教的」要素」で論じておきました。厩戸皇子の誕生場面があまり仏教風でなく、むしろ中国の聖人の印象が強いのはそのためもあるでしょう。

 いずれにせよ、聖書に見えるキリスト誕生の場面とこの仏伝と、どちらが『日本書紀』の厩戸皇子誕生の場面に近いかは、明らかではないでしょうか。ただ、これはその箇所を書くにあたって潤色に用いた材料に関する話であって、厩戸皇子の誕生場所や名の由来が実際にはどうであったかは、また別に考えなければならない問題です。
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