郡保家の一日

極く有りふれた家庭です。その生活の一端を記録していきたいと思います。

自我に耐える

2012年04月26日 | 日記

『釈尊との対話』を読んでいます。3日前から亀岡を目指して飛ぶヘリコプターの音が何度も聞こえる。無免許の18歳の男が居眠り運転で登校小学生の列に突っ込む事故の取材のためである。痛ましく、悲しく、苦しい、不安な気持ちにさせる。どうしてか、加害者であるこの男の両親になった気持ちになる。子をうまく育てられなかった親の弱さを切々と感じるのです。子の欠点を怒り、叱り、嘆き、訴え、完全を求め、自由を奪ってきた。ある時は自分の感情の高ぶりでそれをしてしまったように思う。自我を抑え、耐えることをしていれば、この子も変わっていたかも知れないと思うと自責の念に苛まれます。許してくださいと後悔のことばを何回呟いても、過去は存在し、今のところ消し去ることが出来ない。自分が強かったら輪廻解脱できた。その思いを強く感じるのです。

   ~『釈尊との対話』を読む中で思うこと~
 思い通りに行くことなんて人生の中で何回あるだろうか。一人の人生の中で思い通りのレベルに係わらず、その回数は決まっているように思う。たまたま、大きなレベルの思い通りに当たることもあるだろうが、しょうもないレベルの思い通りに当たることの方が多い。しかし、それでも感謝していればこころの中は豊かになるだろうし、逆に大きなレベルの方がこころの不安や不幸を背負い込むことになるケースもあるだろう。だから、ほどほど(≒中庸)が好い。身の丈に合ったことなら耐えることが出来る。自分が思い通りに行かなかった人ほど、家族に期待し、普通以上のことを求めるケースが多い。それはそれで間違いとは言えないものの、家族の個々にもそれぞれ個人の尊厳があり、口出しせずに一段上から見守る程度で好いように思う。見守ることは難しい。家族だから余計に親切心が働く。そこをグッと堪え耐える。それが人間力だ!人間の器の大きさだ!。人間力が出来ていないので、これからの残された人生の中で少しでも備えていきたい。家族は親のことばでなく、親の姿を見て育つものだ。でも、放任することではない。人それぞれと言う多様性を認め、長い目でみたアドバイス(not=怒る、叱る)はことばを選んで丁寧に話していきたい。


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