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近代革命の社会力学(連載第196回)

2021-02-01 | 〆近代革命の社会力学

二十八 バルカン・レジスタンス革命

(3)アルバニア・レジスタンス革命

〈3‐2〉レジスタンスの曲折と勝利
 アルバニアにおけるレジスタンスは、ユーゴにおけるそれよりも複雑に曲折した過程をたどった。当初はイタリア占領軍に対する諸派の連合的な抵抗運動として開始されたが、これは1941年までに挫折していた。
 その後、弱小政党にすぎなかったアルバニア共産党が1942年以降に台頭、青年の間で着実に党員を増やし、レジスタンス組織LANÇの結成につながる。翌43年には、正式な軍事組織として民族解放軍を創設して、イタリア占領軍に対するゲリラ戦を本格化させた。
 LANÇはユーゴにおける対応組織であるAVNOJと比べても共産党の指導性が強く、各前線パルティザン組織には共産党の政治将校が配置され、軍事組織が即、政治細胞でもあるという二重性を持った。
 このような組織形態となったのは、アルバニア共産党が実質上はいまだ結党中の新興政党であっただけに、パルティザンの組織化すなわち党の組織化を意味していたためである。
 他方、反共レジスタンスの民族戦線も独自に1942年以降、イタリア占領軍との戦闘を開始するが、かれらはアルバニアの領土を拡大する大アルバニア主義を掲げ、セルビア領内のアルバニア系地域であるコソボにも展開していた。
 幸いにも、イタリアは枢軸国陣営内では最も早くに敗色濃厚となった。そうした中、1943年8月、LANÇと民族戦線は、英国の仲介により、共闘してイタリア占領軍に最終攻勢をかけることで合意した(ムクジェ合意)。このように、共産系と反共系二つのレジスタンス組織が共闘関係を結ぶ動きは、ユーゴでは見られない展開であった。
 しかし、民族戦線はコソボのアルバニア統合を強調したため、統合に否定的なユーゴ・パルティザンの支援を受けていたLANÇとの間で対立し、両者の共闘は暗礁に乗り上げる。
 イタリアが1943年9月に降伏すると、いまだ戦争を継続する余力のあるナチスドイツが代わってアルバニアに侵攻・占領した。こうして、アルバニアはイタリアに続き、ドイツの占領下に置かれることになる。
 ところが、民族戦線はドイツ占領軍と戦うどころか、ドイツと協力してLANÇ掃討作戦に出た。ここで、かれらはユーゴのチェトニク同様に、レジスタンス組織から占領協力組織へと変貌してしまうのである。
 他方、LANÇはユーゴ・パルティザンと協力し、改めてドイツに対するレジスタンスを展開した。その結果、1944年11月中に、首都ティラナをはじめ、全土の解放に成功し、アルバニアのレジスタンスは完了する。

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