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近代革命の社会力学(連載第204回)

2021-02-26 | 〆近代革命の社会力学

三十 中国大陸革命

(3)抗日レジスタンスの展開
 1930年代、国民党と共産党(中共)の内戦が激化していく中、満州を占領し、傀儡国家・満洲国を建てた日本はさらに西へ進攻して、華北の占領を狙っていた。内戦に乗じた硬軟両様の作戦は成功し、1930年代半ばになると、日本は北京占領を窺うまでになった。
 そうした中、中国民衆の間で抗日の動きが高まると、中共はいったん国内の革命を先延ばしにし、抗日レジスタンスを優先する方針に転換する。その端的な表れが、長征中の1935年8月1日に発した内戦停止・抗日民族統一戦線結成の呼びかけである。
 しかし、国民党の蒋介石はこれを懐柔策と見て無視したことに対し、党内の実力派軍人・張学良が蒋を西安で拘束、中共との連携を要求する反乱を起こした。この西安事件は中共幹部の周恩来の仲介により解決したことで国共間に和平機運が高まったが、連携が直ちに実現したわけではない。
 局面を急転させたのは、1937年7月の盧溝橋事件を機に日本軍が一気に攻勢を強め、同年度中に北京と上海の二大都市を落とした後である。こうした日本軍の攻勢に対し、装備で劣る当時の国民党軍は単独では対抗することができなかった。
 こうして、1937年9月には国民党・中共間で第二次となる国共合作が協定され、両党は連携して抗日レジスタンスに乗り出すこととなった。このように、共産勢力と反共勢力が合同してレジスタンスに当たるのは、バルカン半島のレジスタンスでは見られなかった事象として注目される。
 おそらく、国民党も元をただせば1911年共和革命(辛亥革命)の基盤となった革命勢力に沿革があり、単純な反共民族主義勢力ではなかったこと、それゆえに、蒋からは睨まれながらも、党内に中共との連携を志向する容共派を抱えていたことが国共合作を促進したものと思われる。
 共産党とその武装部門が主導したバルカン半島レジスタンスとのもう一つの違いとして、この国共合作レジスタンスにおいてレジスタンスの前線に出たのは国民党軍であって、共産党軍は主として農村部を拠点とした後方攪乱的なゲリラ戦を展開したことである。
 実際、華北方面の共産党軍(中国工農紅軍)は、国民党軍である国民革命軍の方面軍に相当する第十八集団八路軍(八路軍)に編入される形で組織上も国民党軍に組み込まれ、日本軍相手の攪乱工作を担当した。この役割分担は的中し、日本軍は大都市と幹線道路を制圧できたものの、都市周辺や農村部に侵攻できず、点と線の支配にとどまっていた。
 役割分担は共産党軍にとっては抗日戦の前線には直接出ないことで戦力を温存することを可能にしたが、そこには、当時の共産党軍は装備上、前線で日本軍と太刀打ちするだけの物量を欠いていたという現実もあったであろう。とはいえ、抗日の主導権を国民党に握らせる戦略は、中共の武力を維持し、将来再び内戦が再開された際の基盤となったこともたしかである。
 一方、華南方面の共産党軍は国民革命軍新編第四軍(新四軍)として組織された。ただ、華南は主戦場ではなく、国民党の牙城と言える地域であっただけに、新四軍は国民党軍に編入されながらも国民党とは緊張関係にあり、後の内戦再開の予兆を内包していた。

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