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近代革命の社会力学(連載第198回)

2021-02-08 | 〆近代革命の社会力学

二十八 バルカン・レジスタンス革命

(4)ギリシャ・レジスタンス未遂革命

〈4‐1〉レジスタンス組織の結成
 ギリシャでは、19世紀のオスマン・トルコ帝国からの独立後、ドイツ人やデンマーク人の王を招聘した君主制が断続的に続いていたが、政局は安定せず、1935年に復活成立したゲオルギオス2世の治世下では、共産党が伸張して政局が不安定化していた。
 そうした中、1936年、国王は反動的な軍人イオアニス・メタクサスを首相に任じたが、メタクサスは強権を発動してファシズムに傾斜した独裁統治を行い、労働運動や共産党を弾圧した。
 一方で、メタクサス政権はイデオロギー上親和的なドイツ・イタリアに接近しつつ、イタリアへの警戒感から保証的にイギリスとも関係を維持する二股外交を展開した。
 しかし、古代ローマ帝国の復刻版とも言える「地中海帝国」(我らの海)の野望を持ち、アルバニアを征服したイタリアのファシスト政権から枢軸側への加盟を要求されるとこれを拒否したため、1940年10月、イタリア軍の侵攻を受けた。
 ところが、ギリシャ軍はいったんイタリア軍を撃退することに成功したため、ドイツがイタリアを支援する形で1941年4月から侵攻を開始し、翌月にはギリシャ全土を制圧、枢軸同盟国であるイタリア、ブルガリアとの三分割占領体制を構築した。 
 面積では本土の大部分を含むイタリア占領区が最大であったが、占領統治の苛烈さでは主として本土北部とクレタ島を含む島嶼部に点在したドイツ占領区が最悪であった。ドイツは傀儡政府を通じて戦略物資や食糧の徴用など経済的搾取を徹底したため、ギリシャ経済は破綻、大規模な飢餓さえ発生した。
 こうした困難な状況下で、レジスタンスが組織される。その中心となったのは、ユーゴやアルバニアと同様に共産党であった。ギリシャ共産党はロシア十月革命翌年の1918年に結党されていたが、占領直前に病没した41年まで独裁を行ったメタクサス政権下では弾圧を受け、逼塞していた。
 しかし、占領が開始されると、共産党は1941年7月、全土でレジスタンス組織を結成し、占領勢力への抵抗活動を展開することを決議した。これに基づき、同年9月には共産党指導下のレジスタンス組織として民族解放戦線(EAM)が、翌年12月にはその軍事部門としての民族人民解放軍(ELAS)が立ち上げられた。
 これに対抗して、反共系レジスタンス組織が結成された点でも、ユーゴ、アルバニアと重なる。この系統のレジスタンスは多数あったが、特に反共共和主義の国民共和ギリシャ連盟(EDES)と王党派の国民社会解放運動(EKKA)を二大勢力とした。これらの反共系レジスタンスの多くは、退役者を含む職業軍人が率い、国軍との関わりが強かったことが、後の内戦過程で効いてくる。
 さしあたり、如上の三大レジスタンス組織の鼎立関係においては、共に反王党派という限りで共通点を持つEAMとEDESは当初共闘関係に立ち、1942年10月には、イギリス軍と共同して、枢軸側の枢要な補給路となっていたテッサロニキ - アテネ間の鉄道路線破壊作戦にも参加した。
 一方で、共産党の伸長を警戒するEDESはドイツ軍との間で相互に攻撃しない密約を結んでおり、消極的ながらも占領協力組織としての二重性格を持っていた。このことは、1943年以降、戦況が枢軸側劣勢となるにつれ、レジスタンス組織間での内戦の動因となる。

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