ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第201回)

2021-02-18 | 〆近代革命の社会力学

二十八 バルカン・レジスタンス革命

(4)ギリシャ・レジスタンス未遂革命

〈4‐4〉内戦の終結と革命の挫折
 激戦化したギリシャ内戦は当初、共産党系のギリシャ民主軍(DSE)の優位に推移し、1948年には首都アテネ制圧を狙える位置にまで進撃していたところで、共産党に内紛が発生したことが最初の躓きとなる。
 当時、共産党トップのニコラオス・ザカリアディス書記長とDSE総司令兼臨時民主政府首相マルコス・バフィアディスの間で、戦闘方針をめぐり、レジスタンス型のゲリラ戦を主張するバフィアディスに対し、ザカリアディスは臨時政府に常備正規軍を創設することを主張し、対立が高まっていた。
 この内紛は党を掌握するザカリアディスが征し、バフィアディスはDSE総司令を解任され、1949年初頭には全役職からも罷免される形で失権に追い込まれたのであった。これにより、従来成功していたゲリラ戦が停滞したことは、国軍を利する結果となった。
 こうした内的要因に加え、ギリシャ内戦にあっては、始まりと同様、終わりにも外的要因が大きく影響することとなった。すなわち、1949年に入り、ソ連とユーゴの関係が悪化し、同年6月に両国が断交したことである。この外部環境の激変がギリシャ内戦の帰趨を決したと言って過言でない。
 ギリシャ共産党は基本的にソ連の影響下にあったが、内戦中、DSEはユーゴのチトー政権の支援を強みとしていたため、両国の断交は共産党とDSEを股裂きにした。党内も親ソ派と親ユーゴ派とに分裂したが、親ソ派が優位となり、ユーゴは自国内のDSE拠点を解体し、支援を打ち切った。
 そのうえ、バフィアディスがDSE総司令を解任された49年8月以降、国軍は反転攻勢を強め、9月までにDSEを各個撃破していった。ユーゴから追放された後、アルバニアのホジャ政権を頼ったDSEであったが、ホジャ政権もDSEを見限り、追放したことがとどめとなり、同年10月、DSEは停戦を宣言、事実上の降伏であった。
 こうして、ギリシャにおけるレジスタンス革命は、ユーゴやアルバニアとは異なり、言わば赤軍と白軍の内戦という時代を30年遡るロシア革命やその余波としての周辺革命と同様の経過をたどった末に、白軍に相当する国軍の勝利に終わった。
 内戦の戦後処理は共産党員とDSEメンバーに対する投獄・処刑という定番であったが、当時の政府は穏健な保守政権であったため、スペイン内戦後のファシスト政権によるような大々的な弾圧は行われなかった。とはいえ、共産党は1974年に至るまで非合法化され、幹部はソ連に亡命した。
 このような結果に終わった人的な要因として、ギリシャのレジスタンス運動はユーゴのチトーやアルバニアのホジャに相当するカリスマ性と政治力を備えた指導者を輩出しなかったこともある。DSEを率いたバフィアディスにしても、戦略家ではあったが、政治力が不足しており、党内対立で敗北したことは如上のとおりである。
 かくして、ギリシャのレジスタンス革命が未遂に終わった結果として、バルカン半島はブルガリアやアルバニア(60年代まで)のような親ソ派衛星国と反ソ非同盟のユーゴ、そして親西側のギリシャが雑居する複雑な地政学構造を呈することとなった。

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