ザ・コミュニスト

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世界共産党史(連載第9回)

2014-05-29 | 〆世界共産党史

第4章 スターリン時代の共産党

3:人民戦線の樹立と挫折
 スターリン時代のコミンテルンが打ち出した社会民主主義排撃―社会ファシズム論―の誤りは、ドイツ共産党がナチスの政権掌握を結果的にバックアップするという矛盾を露呈したことで、明らかになった。
するとコミンテルンは一転、反ファシズムのための連携―人民戦線―に方針変更した。この方針にいち早く反応したのが、スペイン共産党であった。スペインでは36年1月、共産党と社会党その他の左派政党が選挙協定を結び、同年2月の総選挙で勝利、人民戦線連立内閣を組閣した。
 これに対して、危機感を募らせた保守層・軍部は同年7月、スペイン領モロッコ駐留部隊の決起を契機に人民戦線政府の倒壊を狙った大規模な武装反乱を起こした。以後、反乱軍側をナチスドイツやイタリアのファシスト政権が肩入れし、スペインはピカソの絵画『ゲルニカ』に象徴される凄惨を極める内戦に突入していった。
 人民戦線は元来「反ファシズム左派」という一点でしか一致がなく、分裂していたことから、内紛が多く、反乱への対処も足並みが乱れた。ソ連はこうした不安定な構造の人民戦線政府を統制することに躍起で、効果的な軍事援助がなされない一方、自国軍部を掌握できない戦線側は劣勢に立たされた。
 そうした苦境を支援するため、コミンテルンでは義勇軍として国際旅団を組織して送り込んだが、職業軍人で構成された軍部の大半が左袒した反乱軍を圧倒することはできず、3年余り続いた内戦は反乱軍側勝利に終わり、反乱軍指導者として台頭していたフランコ将軍の軍部ファシスト体制が樹立された。フランコ政権は人民戦線派を大量処刑し、共産党は非合法化される。
 同時期に成立したフランスの人民戦線政権(共産党は閣外協力)はスペインのような軍事反乱には直面せず、議会政治の枠内で通貨政策や労働政策の分野で一定の成果も見せたが、スペイン内戦への対応をめぐり強力な支援を主張する共産党と中立を主張する連立与党の中産階級政党との溝が深まり、スペインの人民戦線政府より先に崩壊した。
 同様の人民戦線政権が比較的長続きしたのは、大陸を越えた南米チリのそれであった。大統領共和制を採るチリでは38年以降、人民戦線系の大統領が三代にわたり続いたが、東西冷戦の開始後、南米の共産化を恐れるアメリカの圧力により、48年にチリ共産党が非合法化されたことをもって人民戦線政権時代は終焉した。
 ちなみに、中国では37年、一度は決裂していた共産党と国民党が盧溝橋事件を機に抗日共闘を目的として再び連携した(第二次国共合作)。通常これは人民戦線のうちに数えないが、ファッショ的な傾向を帯びた軍国日本による帝国主義的侵略に対抗するイデオロギーの違いを超えた連携という点では、中国版人民戦線―まさに文字どおりの戦線―と言える面があった。しかし、この「合作」は欧州の人民戦線以上に危ういものであり、日中戦争中から早くも両党の衝突は始まっており、戦後には本格的な内戦へと転じていく。
 コミンテルンの人民戦線方針自体も39年、世界を驚愕させた電撃的な独ソ不可侵条約の締結をもって失効した。ここにも、思想的な軸が一定しないスターリンの日和見な―よく言えば状況判断に優れた―性格が見て取れよう。

4:対独レジスタンス
 ナチスドイツは独ソ不可侵条約以後、ソ連の事実上の黙認を得て欧州諸国を広範囲に侵略していくが、ナチスドイツの侵略を受けた欧州諸国の共産党は、その貢献度に相違はあれ、対独レジスタンスに挺身していく。中でもユーゴスラビア共産党が組織したパルチザンはその成功例である。
 ユーゴスラビアはナチスドイツだけでなく、枢軸同盟に参加していたイタリア、ハンガリー、ブルガリアの総攻撃を受けて解体占領され、枢軸勢力による過酷な分割統治下に置かれた。これに対して、チトーの率いる共産党を中心とするパルチザンが組織され、41年以降、武装抵抗活動を開始した。このパルチザンは独自の海軍・空軍部門まで備えた本格的な軍事組織であり、ほぼ独力で解放戦争を戦い、目的を達成、そのまま政権を掌握した。
 同様のレジスタンス運動は隣接するアルバニアにも波及し、ここでもエンヴェル・ホジャを指導者とするアルバニア共産党が結成され、ユーゴスラビアのパルチザンの支援を得ながら、解放を達成、政権を掌握した。
 ギリシャでも、共産党を主要な核とする対独レジスタンス組織として民族解放戦線が組織され、自力での解放を達成した。しかし、ギリシャのレジスタンス組織はユーゴ、アルバニアとは異なり、スターリンの意向に従い政権掌握には至らなかったが、戦後、政府との内戦に陥り、これが東西冷戦の契機として利用されることとなった。
 一方、ナチスドイツの東欧侵略の橋頭堡となったチェコスロバキアでは戦間期、ドイツと同様に共産党が議会政治に野党として地歩を築いていたが、ドイツによる解体・占領後は非合法化され、弾圧された。難を逃れた共産党員は対独レジスタンスに参加したが、ここでは自力での解放には至らず、ソ連の占領の下で「解放」されるにとどまった。
 ポーランドなどナチスに蹂躙された他の東欧地域でも共産党は対独レジスタンスに加わるが、自力で解放するには至らず、連合国の勝利後、ソ連による軍事占領下での「解放」というプロセスの中で、ソ連の傀儡政党として政権に就けられるケースが多かった。このことが、戦後東西冷戦の伏線ともなっていく。
 他方、「モスクワの長女」フランス共産党は、独ソ不可侵条約締結後「反ファシズム」を取り下げ、「反仏帝国主義」を打ち出すなど、相変わらず忠実な長女の役を担っていたが、フランスがナチスドイツに侵略されると、対独レジスタンスを開始し、ド・ゴール将軍の抵抗運動とも連携しながら、解放に貢献した。


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