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世界共産党史(連載第5回)

2014-05-08 | 〆世界共産党史

第2章 ロシア共産党の旋風

3:十月革命から独裁党へ
 ロシア共産党が誕生したのは、レーニンに率いられたボリシェヴィキがロシア革命(十月革命)に成功した翌年の1918年のことであった。この年、ボリシェヴィキは党名変更し―というより、初めて正式な党名として―共産党を公称するようになった。言わば、革命の勝利宣言である。
 ロシア十月革命は同年2月に帝政ロシアを打倒したブルジョワ民主革命(二月革命)から1年も経ずしてブルジョワ革命政府を転覆する新たな武装革命であったから、それをきっかけとして誕生した共産党にも武装革命―批判勢力からは「暴力革命」と称され続けている―のイメージが強く刻印されることとなった。
 このことによって、革命を通じて資本主義体制の転覆と共産主義社会の建設を目指す共産党と資本主義体制の枠内で労働者階級の利益実現を図るにとどめる社会民主党の分岐も明瞭になった。
 革命までの道のりは決して平坦なものではなかったボリシェヴィキ改めロシア共産党であったが、革命後は昇り竜の勢いであった。革命直後こそ旧メンシェヴィキを含む反革命勢力と革命の波及を警戒して反革命勢力に肩入れする外国勢力との内戦・干渉戦に直面し、ロシア全土が荒廃・疲弊した。それでもロシア共産党は権力の座を滑り落ちず、かえって内戦・干渉戦を利用して権力を強化さえし、協力政党も排除して瞬く間に独裁体制を確立する。これによって、共産党と言えば「一党独裁」のイメージが染み付き、批判勢力からは非民主政治の代名詞のように扱われるようにすらなった。
 とはいえ、中央指導部と地方組織の上下関係や、党内統制の諸制度など、ロシア共産党が編み出した党運営のノウハウは、共産党組織のみならず、共産党に反対する他政党の運営にも直接間接に大きな影響を及ぼし、すべての近代的な政党組織のモデルとなったこともたしかである。その意味では、共産党とはおよそ政党組織の代表格とも言えるのである。

4:十月革命の余波
 各国の厳重な警戒にもかかわらず、ロシア十月革命の余波には大きなものがあった。まずは1918年、ドイツでも革命が勃発し帝政が倒れた。この過程で、ドイツ社民党からもローザ・ルクセンブルクらの急進派が分離して、ドイツ共産党が創設された。
 ただ、ドイツ共産党は勢力が弱く、しかもローザの内発的革命論に依拠していたため、権力獲得にも消極的であり、革命後政権を掌握した社民党によって弾圧され、ローザも街頭デモ活動中、政権が動員した民兵組織の手で虐殺された。それでも、ドイツ共産党は生き延び、ワイマール体制下の議会にも進出して勢力を伸ばす一方、たびたび革命的蜂起も試みるが、これはいずれも失敗した。
 一方、いち早く政権党となったロシア共産党は国際的孤立状態を解消するためにも、世界の共産党組織の糾合を図るべく、1919年に共産主義インターナショナル(コミンテルン)を結成した。これに前後して各国での共産党の結成が進む。
 西欧では、フランス(21年)、イタリア(21年)、スペイン(22年)など主要国で共産党の結成が続き、共産主義とは最も遠いかに見える米国(19年)や英国(20年)にすら共産党が誕生したのであった。
 東欧でも、ロシア共産党の派生政党として生まれたウクライナ共産党(18年)をはじめ、ブルガリア(19年)、チェコスロバキア(21年)、ルーマニア(21年)などで共産党の結成が続く。
 ただ、これらの欧米系共産党は当初政権党とはなれず、せいぜいドイツ共産党のように議会に進出し野党となる程度であり、非合法化され、地下活動を強いられる党も見られた。
 ただ、例外的にハンガリー共産党は19年3月、革命に成功し、ハンガリー・ソヴィエト共和国を樹立したが、国民の支持が広がらない中、なりふり構わぬ激しい反対派弾圧が反発を呼び、ルーマニアの軍事介入を受けてわずか4か月ほどで崩壊した。
 他方、ロシア共産党は内戦終結後の22年、ウクライナ、ベロロシア、ザカフカースの三共和国とともに新たにソヴィエト連邦の建国を宣言したことに伴い、25年以降は連邦を束ねるソ連共産党として、領域的にも拡大された支配政党の座を確立していく。
 さらにロシア革命の余波は欧米にとどまらず、遠く東アジアにも及んだが、東アジアにおける共産党結成の動きについては固有の問題があるため、次章に回すこととしたい。


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