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世界共産党史(連載第4回)

2014-05-07 | 〆世界共産党史

第2章 ロシア共産党の旋風

1:ロシアという歴史舞台
 共産党という名称を明示した労働者政党が最初に現れたのは、意外にもロシアというヨーロッパ東方の大国においてであった。なぜロシアだったのかという問いへの解答は必ずしも容易でないが、実のところマルクス‐エンゲルスは早い段階から、ロシアにおける労働者革命の可能性を一定予見していた。
 例えば、二人は1860年代に出された『共産党宣言』ロシア語版の序文の中で、「もしもロシア革命が西ヨーロッパにおける労働者革命への合図となり、結果両者が相互に補い合うならば」という仮定法で、ロシア革命の先行性を予言していたのである。
 当時のロシアは帝政晩期にあったが、後発ながら産業革命が起こり、伝統的な農業国から資本主義的近代化を遂げようとしつつあった。言わば19世紀末の最も有望な新興国であった。
 それに伴い、都市部には労働者階級が生まれつつあったが、全体としてみれば庶民層の大部分は地方農民であった。帝政ロシア伝統の農奴制は形の上では1860年代に廃止されていたとはいえ、貧農の生活は苦しかった。そこで、ロシア最初の近代的な社会変革運動は農民の利益を重視するナロードニキのような農民社会主義政党が主導し、労働者政党の結成は遅れた。
 当時の帝政ロシアはプロイセン・ドイツを上回る発達した治安機構をもってこうした反体制運動を抑圧したため、対抗上ナロードニキから過激な分派が派生し、皇帝を含む要人暗殺を事とする武装闘争に乗り出すようになった。
 他方で、ロシアからはバクーニンのような異色のアナーキストも生み出した。バクーニンは『共産党宣言』ロシア語版の訳者となるなど、当初はマルクス‐エンゲルスのロシアへの紹介に努め、ロシアにマルクス主義の最初の種をまいた立役者であったが、間もなくマルクス批判に転じ、晩年のマルクスにとって最大の論敵となった。
 制度的なもの全般に否定的であったバクーニンも独自の政党組織の結成には動かなかったが、マルクスらによって除名されるまで、労働者インターナショナル内に支持勢力を保持していた。しかし彼は主に海外で活動したため、ロシア国内での影響力はほとんどなかった。

2:社会民主労働者党の結成‐分裂
 マルクスらは、ロシア革命の予言の中でロシア農村伝来の土地共有慣習が共産主義的発展の出発点となり得るとも見ていたのだが、そうした伝統的な土地共有慣習は、帝政ロシア末期の上からの近代的農地改革政策の結果、急速に解体されていったため、ナロードニキ寄りとも言えたマルクスらの見立てはややくるうこととなった。
 ロシアで共産党の母体組織となる社会民主労働者党が実質的に結成されたのは、世紀が変わった1900年代初頭になってからであった。しかも、それは結党初期から分裂含みの危うい組織であった。
 分裂のもととなったのは、穏健な党内主流派と後に革命指導者として台頭する急進的なレーニンのグループの対立であった。穏健派は当時議会政治で成功を収め、資本主義内部に適応しつつあったドイツ社民党に近い路線を採り、まずはロシアでもブルジョワ民主主義革命の実現を先行させるべきだとの考えに基づいていた。
 対するレーニンは強力な治安機構をもって反対勢力を容赦なく弾圧する帝政ロシアを相手に、武装革命をもって一挙に労働者革命を実現させようという野心的な展望を抱いていた。
 こうして実際の勢力図とは裏腹に、ボリシェヴィキ=多数派を名乗る急進的な党内少数派のレーニン派と党内主流派のメンシェヴィキ=少数派との対立はついに事実上の党分裂に至る。それでもボリシェヴィキはなお共産党を名乗らず、あくまでも社会民主労働者党の枠内での分派の位置づけであったが、すでにレーニンは民主集中制のような後の共産党組織の共通組織規範となる教義や党が労働者革命を指導するという革命前衛理論を確立しようとしていた。
 同じ頃、ドイツ社民党内部でも党の穏健化を「修正主義」と非難して、より急進的な立場を取ろうとするローザ・ルクセンブルクに代表される少数派も出現していた。ただ、レーニンの党指導理念に反対するローザは労働者階級の内発的な革命の必然性を提唱し、レーニンの論敵となっていたため、やはり共産党を名乗ることはなかった。
 このようなロシア最初の労働者政党内部での党争が、間もなく勃発するロシア革命の最中に共産党を産み落とす胎動となったのであった。


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