ザ・コミュニスト

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世界共産党史(連載第6回)

2014-05-21 | 〆世界共産党史

第3章 東洋の共産党

1:草原の国の革命党
 1919年のコミンテルン結成後、欧州各国に共産党が結成されていくが、ロシア共産党のように革命に成功して政権党に就いたものは、ごく短期間革命政権を担ったハンガリー共産党を除けば、一つもなかった。そうした中、マルクスも予想しない意外な場所に成功した革命党が現れた。モンゴルである。この草原の国は1924年、ロシアに次ぐ世界で二番目の社会主義国家となるのであった。
 ロシアからモンゴルへという革命の波及は飛躍のようにも見えるが、そこには十分地政学的な伏線があった。モンゴルは長く中国清朝の支配下に置かれていたところ、1911年の辛亥革命で清朝が倒れたのを機に、外モンゴル地域がいったん独立を回復した。これは中華民国と帝政ロシアも加わった15年のキャフタ条約で、「自治」という後退した形で承認された。
 しかし、1917年のロシア革命後、中華民国が外モンゴルの支配回復に乗り出し、自治を廃止した。それも束の間の21年、今度は折からのロシア内戦における反革命白軍派武装勢力が侵入し、圧政を敷いた。ここから、モンゴルは図らずもロシア内戦に引き込まれることになったのだった。
 この過程で21年、ロシア革命に触発された民族主義者と社会主義者の二つの革命結社が合流してモンゴル人民党を結成した。この党が中心となり、ロシア赤軍の援助の下、21年にロシア反革命派軍閥支配からの独立革命に成功したのだった。
 その結果成立した革命政府は活仏ボグド・ハーンを元首とする立憲君主制であったが、ハーン死後の24年、社会主義共和国へ移行した。人民党はコミンテルンの助言に従い人民革命党と改称して以降、共和国の支配政党となり、曲折を経て親ソ政策の忠実な履行者として、モンゴルをソ連の衛星国の地位に導いた。
 このように、人民革命党は独立革命から社会主義化まで主導するという稀有な一貫性を示した。この党はソ連共産党同様の独裁政党に就き、マルクス‐レーニン主義を党是とするようになっても共産党を名乗ることはなかった。それは民族主義者と社会主義者の合同という沿革による制約であった。
 こうした他名称共産党の実例は、後に中・東欧の幾つかの国でも、共産党を名乗らない合同政党結成の先例となるとともに、中・東欧にもモンゴル型衛星諸国が樹立される先例をも作ったのだった。

2:中国共産党の結成
 コミンテルンは東洋の大国・中国にも共産党を産み落とした。すなわち1921年、陳独秀や毛沢東ら北京大学のマルクス主義者を中心に、公称でも57人というわずかな人数で共産党が結党された。
 当時の中国では、孫文の民族主義政党・国民党がボリシェヴィキの影響を少なからず受け、コミンテルンに接近していた。そのため、全くのマイナー政党だった中国共産党はコミンテルンからも国民党との協力を要請された。北京軍閥政府への対抗策として実現した24年の第一次国共合作はそうした両党連携の最初の試みであった。
 しかし、孫文を継いだ軍人の蒋介石は反共主義であり、27年には上海でクーデターを起こし、共産党と国民党内の容共派を排除したことで、国共合作はひとまず崩壊する。その後、中国領土の侵略を進める大日本帝国との戦いの中で、国民党との合作が再び試みられるが、結局、中国ではモンゴルのように民族主義者と共産主義者が合同政党を結成することはなく、このことが後々国共内戦と大陸・台湾の分断につながっていく。
 さて、中国共産党はコミンテルンの産物ではありながら、次第に独自の路線を歩み始める。その中心となったのが毛沢東であった。他の共産党幹部とは異なり、ソ連留学経験を持たなかった彼は、中国民衆が圧倒的に農民で占められている現実に鑑み、労働者より以上に農民の利益を基盤に、農村を革命根拠地とする独自の理論を抱懐していた。
 毛はこの持論に基づき、制圧した農村根拠地で地主・富農の土地を接収し、貧農に分配する土地革命を実施していくが、こうした毛の実践は当初、親ソ派の党主流からは異端視され、32年から33年にかけて、毛はいったん党指導部を事実上追われることになるのであった。

コメント

裁判員制度五周年

2014-05-21 | 時評

2009年5月の裁判員制度施行から今日でちょうど5年。この間、裁判員選任手続への出席率が年々減少を続け、初年度の40%から本年度は3月現在の集計で25%まで低落した。

こうしたデータをみると、裁判員制度は所期どおりに機能しておらず、ジリ貧状態とも言えるが、実はこの状態こそが、所期の成果なのである。どういうことか。

以前拙論の中で、裁判員制度は罰則付きで広く国民に動員をかける形をとりながらも、実際上司法当局としては相当数の辞退者・拒否者が出ることを想定して、それらの者は深追いせず、積極的な協力姿勢を示す候補者だけをピックアップして翼賛的な「少数精鋭主義」で制度を運用しようとの方針を持っているのではないか、と指摘した。

7割以上の裁判員候補者が選任手続に出席しないという現状は、まさにこうした「参加司法」ならぬ「翼賛司法」が実現されつつあることの結果である。であればこそ、裁判員経験者向けのアンケートでは実に95%が「よい経験だった」と回答している事実をもって、当局は制度運用はおおむね順調と評価しているのである。

これは、決して当局の強弁ではない。他人を裁き、刑罰を下すことを「よい経験」とする応報主義的な価値観の協力的な裁判員だけを擁して粛々と被告人を断罪していく現状は、たしかに市民感情を反映した「犯罪との戦い」のイデオロギー装置である裁判員制度本来の狙いどおりと言えるからだ。

制度反対運動の側では、出席率の低下をもって制度破綻・廃止への道と認識する向きもあるようであるが、事実は逆で、むしろ少数精鋭の翼賛司法制度の完成へと向かっている。このままなら、当局は決して裁判員制度を手放さそうとしないだろう。

もし当局が制度廃止を真剣に検討することがあるとすれば、それは上記拙論でも触れたように、辞退者・拒否者が増えるよりも、制度批判派市民が積極的に参加することで(批判的裁判参加)、無罪評決や厳罰回避評決が目立って増え始めたときである。

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