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世界共産党史(連載第7回)

2014-05-22 | 〆世界共産党史

第3章 東洋の共産党

3:日本共産党の結成
 日本ではマルクス‐エンゲルスの『共産党宣言』が1904年に幸徳秋水と堺利彦共訳で発表されたが、当局の出版統制は厳しく、直ちに発禁処分となり、幸徳秋水らが明治天皇の暗殺を謀ったとして処刑された1910年の大逆事件以降は太平洋戦争終了後の民主化まで禁書とされるなど、共産主義思想の抑圧は戦前日本支配層の根本施策であった。
 そうした厳しい環境の中、堺利彦らを中心に1922年、日本共産党(第一次)が結成され、間もなくコミンテルン支部として認証された。しかし草創期の日本共産党はまとまりが悪く、抑圧の中を生き延びるだけの結束力に欠けていたため、綱領も定められないままわずか2年でひとまず解散となった。
 他方、当局側もロシア革命後の状況を踏まえ、25年には明白に共産主義思想・運動に取締りの照準を定めた治安維持法を制定し、思想統制の強化に努めた。そうした抑圧の増す環境下で、26年に党は再建された。この第二次党は第一次党より純粋な共産主義者の党を目指し、27年にはコミンテルンの指導で準綱領的なテーゼ(27年テーゼ)が策定された。そこでは、党の焦眉の義務は革命よりも大日本帝国の中国侵略・戦争準備に反対する闘争にあると規定された。このことは、日本共産党が反戦平和の党としての性格を強く帯びていく契機となった。
 とはいえ、治安維持法下ではあくまでも非合法政党であることに変わりなく、地下組織ではなく政党として存続していくためには、党員は他の左派系合法政党に加入して宿借りをするほかなかった。その結果、28年の第一回普通選挙では共産党推薦の候補者が当選するなど、合法的選挙の枠内で一定の成果を見せ始めた。
 この事態に敏感に反応した当局は、同年、共産党員を中心に合法政党であった労農党員まで含むおよそ1600人を一斉検挙する大弾圧を加えた(3・15事件)。これを突破口として翌年には、共産党員約5000人が検挙され、党は事実上壊滅状態となった(4・16事件)。この後の日本共産党はやみくもなテロ戦術による武装闘争路線をしばらく迷走することになる。

4:朝鮮共産党の苦難
 朝鮮の共産党は日本以上に厳しい制約下に置かれた。朝鮮共産党は日本統治時代の25年、コミンテルン支部としてソウルで極秘に結成されたが、翌年、日本の帝国主義支配に反対する大規模なデモ行動計画「6・10万歳運動」が未然に摘発されたことをきっかけに朝鮮総督府の大弾圧を受けた。
 検挙を免れた党員らは民族主義者との連携を目指し、27年に共産主義者と民族主義者の連合組織として「新幹会」を創設する。当時日本の統治下にあった朝鮮では共産主義革命どころではなく、まずは日本からの独立達成が先決であったことから、こうした連合はタイムリーなものであった。
 ただ、この組織はモンゴルの人民革命党のように正式に合同政党化することはなく、分権的なネットワーク型運動組織にとどまっていた。そのうえコミンテルンが28年、弾圧と分派闘争により朝鮮共産党組織は消滅したと一方的に認定したことから、コミンテルンが公式に認証する朝鮮共産党組織は存在しないことになり、事実上解体し、これに伴い新幹会も31年に解体された。
 この後、朝鮮共産党は半島地域よりは取り締まりがいくぶん緩やかだった満州や日本の支部組織レベルでしばらく存続するが、それらもコミンテルンの画一的な「一国一党」方針により順次現地国の共産党組織に吸収されていった。
 こうして、朝鮮共産党は宗主国日本の徹底した弾圧政策とコミンテルン―実態はソ連―の画一的な統制方針とによる外部的制約にさらされ、いったんは消滅していったのであるが、実質的には満州にまたがる半島北部で日本からの独立を目指すゲリラ活動(抗日パルチザン)という民族主義的な形態をまとって潜在していくとも言える。


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