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マルクス/レーニン小伝(連載第60回)

2013-02-23 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第4章 革命から権力へ

(5)最高権力者として(続き)

無原則主義
 政策決定者としてのレーニンを特徴づけるのは、その時々の情勢に応じて施策を使い分ける状況判断であった。
 この特徴は革命家時代には臨機応変な情勢判断に基づき10月革命を成功させるうえで大きな力となったものであるが、為政者としてはまさに「一度握った権力は手放さない」と誓ったとおり、権力を保持するうえで極めて有効であった。
 このようなレーニンの流儀は確固とした原則を持たない無原則主義の現れにほかならなかった。これは、一定の原則を持ちつつも状況次第で動揺し、軸がぶれていく動揺分子的な立場とも、またおよそ態度表明せず、状況に応じて自己の利益に適う立場を選択する日和見主義とも異なる、まさに「レーニン主義」独自の特質であった。
 こうした無原則主義も、個別具体的なケースごとに対処法を選択していく法律家的な発想と手法に由来するものと取れないことはない。それは善解すれば「柔軟」ということになろうが、民衆の生活に直結する基本的な経済政策があまりに「柔軟」に変動すると、社会的な混乱のもととなる。
 レーニン政権の経済政策は当初、「戦時統制経済から社会主義へ」というテーゼに沿って「戦時共産主義」と称される統制経済からスタートするが、その結果、各種工場や銀行の急激な国有化のために経済が大混乱に陥ると、内戦・干渉戦終結後、今度は中小企業の私的営業の容認や独立採算制の導入まで含んだ「新経済政策(NEP)」に転換する。
 しかし、事実上資本主義原理を容認し、社会主義に逆行するようなネップが党内で批判されると、レーニンはプロレタリア国家の統制と規制の下に置かれた「国家資本主義」なるマルクスにはない新概念を持ち出して正当化を図った。
 一方では、社会主義とも辻褄を合わせるため、ネップへの政策転換と同時に経済計画の立案・実施機関となる国家計画委員会(ゴスプラン)をも設立した。さらに、まだネップ期にあった死の直前の頃にまとめて書いた五論文の一つでは、社会主義をもって「文明化された協同組合員の体制」とするユートピア的定義を提出し、完全な協同組合化を「文化革命」と呼んで後世に託してもいる。
 こうしたレーニン流無原則主義は経済問題のみならず、民族問題や宗教問題といったよリデリケートな領域でも発揮されている。
 特に民族問題に関わる彼の無原則主義が大きな政争に発展したのは、ソ連邦結成に際して生じた「グルジア問題」であった。グルジアのソ連邦への参加方法をめぐっては、独立してソ連邦に参加することを主張する民族派と、「自治共和国」という形式で参加することを主張するスターリンらロシア寄りグループの対立があったが、レーニンはそのどちらも支持せず、カフカス地域を包括するザカフカス共和国に編入して参加させる方式を提案し、党に認めさせたのである。
 彼はスターリン案を「大ロシア主義」と批判しながら、自らの案もグルジア人の民族自決を認めず、ロシア中心の連邦構成を目指したものにすぎなかった。レーニンはソ連邦を構築するに当たっては、かつてローザとの論争で高調した民族自決云々よりも、明らかに資源をはじめとする帝政ロシア以来の経済的権益の方を優先していたのだ。
 宗教問題に関する無原則主義もまた鮮明であった。レーニンの宗教認識が最も鮮明に現れているのは、第一次革命の渦中で書かれた1905年の「社会主義と宗教」という論文である。そこでの彼は宗教を人民の阿片とみなすマルクスの認識を継承しつつも、宗教に対しては「穏やかで、自制力のある、寛容なプロレタリア連帯性と科学的世界観の宣伝を対置する」との指針を示していた。
 ところが為政者としては、レーニン政権がコミンテルンの活動資金に充てるため、ロシア正教会の財産の没収を強化していたことに抗議する信徒らの暴動を契機に、1922年にはロシア正教会の弾圧に乗り出し、聖職者の処刑を断行したのであった。その20年近く前の論文における「寛容」な宗教対抗策は、現実の宗教暴動の鎮圧と帝政ロシアの精神的支柱であった正教会の打倒という政権課題の前では棚上げにされたのだ。
 レーニンの死の三年後に自ら命を絶つ芥川龍之介が遺作「或阿呆の一生」の中に書き付けた次のような詩的なレーニン評は、レーニンのしたたかな二枚舌、三枚舌の無原則主義を鋭い文学的直観で的確にとらえていたように思える。

誰よりも民衆を愛した君は
誰よりも民衆を軽蔑した君だ。

誰よりも理想に燃え上つた君は
誰よりも現実を知つてゐた君だ。

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