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老子超解:序文

2012-02-18 | 〆老子超解

序文

 本連載は独異な中国古典哲学書『老子』を過去の古典としてではなく、現在を超克し、新たな未来の地平を拓くアクチュアルな革命の哲学として大胆に読み直そうとする企てである。
 『老子』は、しばしば東洋的神秘思想の晦渋な奇書として扱われるが、本連載ではそうした神秘主義的解釈には与しない。むしろ『老子』をより世俗的・実践的ですらある革命思想として読み解いていく。
 他方、『老子』はポスト・モダンの欧米思想界において、いわゆるニューサイエンスの隆盛の中で、「タオ(道)イズム」という把握のもとに新たな脚光を浴びた時期もあったが、本連載はこうした疑似科学的な一種オカルティズムに『老子』を援用することも拒否する。この点では、2000年以上も遡る時代に現れた『老子』の古典性を直視し、同書を現代的神秘思想に仕立て上げようとする恣意的解釈にも与しないのである。
 では、『老子』のアクチュアルな革命の哲学としての意義はどんなところに見出せるのか。その具体的な抽出は各章の解釈に委ねていくとして、ここでは総論的に述べておこう。
 それはまず、『老子』が現代世界を形作る三つの教条、すなわち合理主義・実証主義・現実主義の対極で思考しようとしていることである。
 この三つの教条とは、要するに倫理学・科学・政治経済学という三つの主流的学術に対応するが、これらの学術の隆盛は形而上学としての哲学の没落をもたらし、思考の凡庸化・陳腐化を結果している。
 これに対して、『老子』の思考は形而上学のさらに上を行こうとする。言わば超形而上学である。逆に言えば、現代世界とは徹頭徹尾反老子的世界であると言ってよいのであるが、それだけに『老子』は今、最も根源的な批判哲学を提供し得るのである。
 このことは、『老子』が神秘思想としてとらえられがちなゆえんでもあるが、繰り返せば本連載ではそうした神秘主義的解釈を拒否する。
 実際、『老子』の通行本全81章の構成をよく見ると、極めて深遠な内容の哲学が開示される部分と、一転して実践的な政論が展開される部分とに大別できることがわかる。そこで、本連載では通行本で上篇37章と下篇44章に分ける構成を廃し、哲理篇47章と政論篇34章という筆者独自の構成に組み換えて注解していく。
 これにより、しばしば「老荘思想」としてひとくくりにされる後発書『荘子』との相違が明瞭となる。『荘子』はたしかに『老子』と系譜的なつながりを持つが、決定的に異なるのは『老子』のような政論を伴わないことである。『荘子』は神秘性・宗教性が一段と濃厚である。そのため、本連載は「老荘思想」というくくり方を拒み、『老子』を老子固有の哲学として読み解いていく。
 ところで、『老子』の叙述形式に関する魅力的な特色は、韻を踏む詩文の形で展開されることである。この点では、有名な「子の曰く」の書き出しで始まる儒教のバイブル『論語』とは好対照である。
 しかも『老子』は時折一人称の語りが混じる教説詩の形をとる点でも、師の講説の形で語られる『論語』とは大いに異なる。教説詩という形式の点ではソクラテス以前の哲学者、特に内容的には老子と好対照とも言える存在論を説いたパルメニデスに近いと言えるかもしれない。
 『老子』の各断章には様々な教説が含蓄されているが、それは『論語』や叙述形式の点では『論語』の社会主義版とも言うべき『毛沢東語録』のように、一人の偉大な思想家の権威的な語りとして展開されるのではなく、小さなつぶやきのような詩の形で語られるのである。言わば、大文字の〈主体〉なき語りである。
 このことは、そもそも『老子』の原著者とされる老子その人が伝説的な人物であって、実在性も確証されない影のような人物であることによっていっそう倍加されている。
 おそらく、書物としての『老子』は名も無き一介の在野哲学者が残した何らかの断片的草稿もしくは口述筆記をもとに、後世の人々が徐々に書き足して一応今日の通行本のような形で完成された集団的創作の所産であるに違いない。
 そうした集団的な語りとしての『老子』は、「著作権」なる観念にとらわれない思考の共産・共有という未来の思考のあり方にも強い示唆を与えるものと言えるのではないだろうか。
 さて、前口上はこれくらいにして、早速次回より『老子』の世界に没入していこう
 

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