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良心的裁判役拒否(連載第12回)

2011-12-02 | 〆良心的裁判役拒否

実践編:裁判役を拒否する方法を探る

第7章 良心的拒否の基礎

(1)良心的拒否とは?
 良心的拒否という実践は、「良心的兵役拒否」という形で、従来圧倒的に軍事的な兵役との関わりでなされてきたため、戦後は兵役制度を廃止した日本ではまだなじみの薄い実践だと思います。
 ちなみに、憲法上「臣民の義務」として兵役が明確に定められていた戦前は、一方で思想良心の自由を認めない全体主義的な国家体制であったため、兵役拒否は理由のいかんを問わず許されませんでした。
 良心的拒否とは、自己の良心に照らして不正と判断される法律上の義務の遂行を拒否する実践ですから、それは思想良心の自由に基礎を置く実践であり、従って思想良心の自由のないところでは全く成り立たない実践です。
 ところで、単なる「拒否」でなく「良心的」と限定するのは、単に面倒だからとか、何となく嫌だからという「回避」の心情ではなしに、法律上課せられる義務の内容を自身の信条に照らして吟味するというプロセスを経て拒否することが求められるからです。
 その際、規準となる自己の信条は宗教的なものである場合と、非宗教的なものである場合とがあります。どちらであるか、あるいはどちらでもあるかは、各自の信条の持ち方によって異なります。信仰者であれば、自己の信ずる宗教の教義を踏まえた信条を持っていることが多いでしょう。
 この点、良心的拒否を立法上認めてきたアメリカでは、合法的な良心的拒否の範囲を宗教的な信条に基づく場合に限るのが伝統であったのですが、その後、非宗教的な信条に基づく場合にまで拡大するようになりました。
 罰則をもって担保されるような法律上の義務の遂行を拒否するほどの信条を持つ人が信仰者に多いことは歴史上も認められる事実ですが、だからといって良心的拒否を信仰者に限って容認するという方法をとると、信仰者に一種の免除特権を認めるに等しくなり、それも問題です。宗教的かどうかを問うことなく、とにかく各自の信条による吟味を経ているなら「良心的拒否」として認めるのが適切だと言えます。
 ただ、「信条」といっても、およそいかなる信条でも許されるというわけではありません。極端な例ではありますが、「自分は殺人を肯定する」という信条に基づいて裁判役を拒否するというようなことは、いくらそれもその人なりの確信であるからとはいえ、法律上の義務の遂行を拒否することを正当化できるような信条とはとうてい評価できません。
 「良心的拒否」であって単なる「確信的拒否」ではないことには意味があるわけです。従って、「良心的拒否」の規準となる「信条」とは、少なくとも他者を侵害するような内容のものではないことが条件となるでしょう。
 この点、良心的拒否の歴史的先駆者として知られてきた19世紀アメリカの作家、H・D・ソロー(1817-1862)は、黒人奴隷制を維持し、西部領土の拡張を狙ってメキシコ侵略戦争を続ける当時のアメリカ政府に抗議するため、6年間にわたり納税を拒否して逮捕されるという大胆な行動を示しました。そのソローが自らの体験をもとに書いたのが、『市民的不服従』という有名な論文です。
 ソローはここで、「良心的拒否」(conscientious objection)でなく、「市民的不服従」(civil disobedience)という語をタイトルに冠していますが、彼の行動の本質は、奴隷制や侵略戦争を不正とみなす彼の信条に基づいて奴隷制や侵略戦争への協力の意味を持つ政府への納税義務の遂行を個人的に拒否したという点で、まさに良心的拒否にほかなりませんから、論文の論旨はここでの議論にも基本的に妥当します。
 その論文の中で、彼は「不正な法律は存在する。われわれはそれに従うことに満足していればいいのか、あるいはそれを改める努力をしながら、成功するまでは従っているのがいいのか、それともすぐに背くのがいいのか」と問うたうえで、次のような規準を提出しています(以上及び以下、富田彬訳によるが、一部訳文変更)。

「もし、その不正が、政府という機械に必然的な摩擦の一部分なら、放っておくがいい。ひょっとしてその摩擦はだんだんすりへらされるだろうから。もしその不正がただそれ自身を動かすためのバネか滑車かかクランクをもっているのなら、その不正を正すことが角を矯めて牛を殺す結果にならないかどうかを考えてみるのもよかろう。しかしその不正が、あなたがたをして他者に対して不正を働かせるような性質のものであるなら、私はそんな法律は破ってしまいなさいと言いたい。あなたがたの生命をその機械の運転を止める反対摩擦としなさい。私の為さねばならないことは、ともかく私の非難する悪事には力を貸さないということである。」

 ここで重要なのは、破るべき法律の持つ「不正」の内容を「あなたがたをして他者に対して不正を働かしめるような性質のもの」と限定していることです。つまり良心的拒否の対象となる「不正な」法律上の義務とは、他者に対して及んでいくような不正を内容とする義務だということになります。
 その例としては、まさに兵役のように武器を取って他者を直接に殺傷するような義務や、ここでの主題である裁判役のように裁判権力を行使して他者の生命・自由を剥奪する命令を下すような義務が挙げられるでしょう。
 ソロー自身が実行した納税拒否はやや微妙ですが、政府への納税を通じて、他者を差別する黒人奴隷制や侵略戦争のような不正に間接的に協力させられるという限りにおいては、やはり一個の不正な義務付けとみなすこともできるでしょう。
 前章(1)で裁判員制度の不正な問題点を整理・列挙した際に、良心的拒否を根拠づける中核的要素は他者たる被告人に及んでいくような不正であると前もって指摘しておいたのも、このことに関わっています。


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