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近代革命の社会力学(連載第471回)

2022-08-08 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(8)モロッコ半革命
 2011年に始まる「アラブの春」連続革命は北アフリカを含むアラブ世界の独裁的な共和制国家で継起したが、アラブ世界にはいまだ数多い専制君主制国家にも波及した。その大半は革命に至らない騒乱のレベルで収束したが、北アフリカ唯一の君主制国家モロッコでは革命的な民衆蜂起が生じた。
 ただし、国王の廃位や君主制そのものが廃止される共和革命に進展することはなかったが、最終的に国王側の相当な譲歩を引き出し、憲法改正を通じた一定以上の民主化が達成されたため、この事象は半革命とみなすことができる。
 モロッコでは、17世紀以来、フランス・スペインによる分割統治下での一時的な中断をはさみ、預言者ムハンマドの子孫と伝わる豪族アラウィー家による君主制が続いてきたが、1961年に即位したハッサン2世時代に築かれた抑圧的な専制君主制の仕組みが1999年のハッサン2世没後、王位を継承したムハンマド6世の代でも基本的に維持されていた。
 とはいえ、ムハンマド6世は父王の専制的な統治をある程度緩和し、自由化を進めたものの、「アラブの春」の波及を阻止するには不十分な限定改革であった。その結果、2011年2月(以下、日付はすべて2011年中)に首都ラバトで抗議行動が開始され、3月には全国の主要都市に拡大していった。
 ただし、抗議活動は君主制の廃止ではなく、国王権限の縮小を軸とする民主的な憲法改正、汚職追放、失業問題など、君主制枠内での政治経済改革に重点を置いており、初めから穏健なものであった。
 これはアラブ世界でも最も古い17世紀以来続くアラウィ―王朝への国民的支持が依然根強く、時のムハンマド6世のある程度まで改革的な統治にも一定の信頼があったことを示しており、その意味では、モロッコにおいては初めから完全な革命に進展する土壌はなかったと言える。
 民衆蜂起に直面した国王側の対応もすばやく、3月には、包括的な憲法改正のための委員会の設置と国民投票の実施を公約した。6月に改めて、憲法改正案の詳細と7月の国民投票日程が発表された。
 改憲の軸は従来国王が任命してきた首相が議会多数党派から選出され、首相が閣僚の任命権や議会解散権も有するという西欧諸国における議院内閣制の導入であり、さして真新しいものではないが、長く専制君主制が続いたモロッコでは大きな前進ではあった。
 そのほか、女性に政治的のみならず、市民的・社会的にも平等な地位を保障し、すべての国民に思想・理念の自由を保障するなど、イスラーム世界ではリベラルな内容も盛り込まれた。
 一方で、国王は軍最高司令官や閣僚会議議長、最高安全保障会議議長を兼任し、政治的な実権は保持するという折衷的な内容であり、一部の急進派には不満を残し、国民投票ボイコットの呼びかけもあったが、改憲案は7月1日の国民投票で98パーセントという高率をもって承認された。
 この後、11月に改憲後初の議会選挙が実施され、穏健イスラーム主義の公正発展党が比較第一党となり、同党を中心とする連立政権が発足したことで、モロッコにおける半革命は収束した。
 こうして、モロッコでは穏健な民主化を求める民衆と国王の妥協によって、完全な革命が阻止されたが、国王が象徴的存在に退いたわけではなく、立憲君主制としてはなお権威主義的な面を残していることや、汚職や失業など経済問題は積み残されているため、革命へのマグマは消滅し切っていない。

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