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近代科学の政治経済史(連載第17回)

2022-08-26 | 〆近代科学の政治経済史

四 近代科学と政教の相克Ⅱ(続き)

ダーウィン進化論と宗教界の反発
 チャールズ・ダーウィンがその著名な主著『種の起源』を公刊したのは、旧進化論者ラマルクの没後30周年に当たる1859年であった。著書の公式タイトルは『自然選択、すなわち生存競争における有利な種の保存による種の起源』という長いものであった。
 著書の全体論旨を見事に凝縮した明快なこのタイトルには、ラマルクの用不用論のような素朴な進化論を超えて、自然選択という新たな視座を提唱しつつ、かつ天地創造説のような神学的な創世論を否認し、生物種の起源に関する科学的な理論を定立せんとするダーウィンの企図が込められている。
 ちなみに、ダーウィン自身は英国では正統派の国教会教徒であり、父は彼を牧師にするため、ケンブリッジ大学で神学を学ばせた。科学の道に転身してからも、ダーウィンは無神論者ではなく、聖書の無謬性も信じていたとされるが、博物学者としての研究旅行の中で、科学と信仰の相克に悩み、事物の本質認識を不可能とする不可知論に傾斜していたようである。
 しかし、彼の研究集大成でもあった『種の起源』では、まさに種の起源について天地創造を否定するに至ったため、宗教界からの反応は概して否定的であり、ダーウィンの恩師にして、国教会聖職者・地質学者でもあったアダム・セジウィックもダーウィン進化論の論敵となった。
 また、ヴィクトリア女王の宗教顧問でもあったサミュエル・ウィルバーフォース主教もダーウィン進化論に対する強力な反対者となり、ダーウィンをナイト爵の候補者に推薦することに反対した。そのため、その学術上の業績からすればナイト爵を授与されても然るべきダーウィンは生涯、国家的栄典に浴しなかった。
 しかし、そうした公的な冷遇を超えて、ダーウィンが17世紀のガリレオのように直接に迫害を受けるようなことがなかったのは、英国国教会のある程度までリベラルな体質と、17世紀以降近代科学の先進地であった英国の自由な知的風土のゆえであろう。

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